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世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

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ピンウールウィン~ヒルステーションの老人の巻

»カテゴリ: ミャンマー

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ピンウールウィンの目抜き通り。右にモスクが見える(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 摂氏45度もあったマンダレーを脱出して、標高1100メートルのピンウールウィンに来た。イギリス人は熱帯の植民地で暑さに業に煮やしては、高地に避暑地を建設して回った。単に余暇に来るだけではなくて、暑季の間、こうした“ヒルステーション”で植民地行政を司り、駐屯軍の拠点としていた。日本がイギリスの植民地だったら、軽井沢や蓼科に総督府の別館や兵営が置かれたかもしれない。
 英語の看板が目立つピンウールィンの目抜き通りで、インド人らしい顔つきをした男に声をかけられた。席を勧められるままに、骨董品を扱うその店先でくつろぐ人たちに挨拶する。ネパール、ベンガル、パンジャブからやってきた英印軍兵士の子孫たちだった。ミャンマーの民族衣装であるロンジーという腰巻を履いた老人は、彼の祖父は、現在のバングラデシュにあたる英領インド・ベンガル州出身だと話す。イギリスの植民地軍に入った祖父は、この町に転属になったまま、退役後も故郷に帰らなかった。地元の女性と結婚したからだ。三代目の彼は、インドにもバングラデシュにも行ったことがない。わしはミャンマー人だからな、と老人は言った。
 どういうわけか自転車の貸し出しもやっている骨董品店で自転車を借りて、近隣の村に行ってみた。気温は25度ぐらいで、心地いい。
 このまま中国国境に伸びる街道を北東に走った。この道は途中、ラショーという地方都市を通り、かつてここから先は「バーマ・ロード」として知られていた。日本で言う「援蒋ルート」である。日中戦争中、米英軍がこの道を使って、蒋介石率いる中国に物資を送っていた。これを遮断しようとして、大戦勃発後、日本軍はビルマに侵攻したのだ。
 街道を進むと、左手に真新しいリゾートホテルみたいな建物が何棟も見えた。やがて、4車線の黒々とアスファルト舗装された道が街道から枝分かれして、芝生と人工湖のみえる方角に伸びていった。分岐点に鄙びた周囲の風情と似つかわしくない立派な門があって、金ピカに光る英文字が「ミャンマー国軍技術学校」と読めた。
 どうせ勉強するなら涼しいところがいいもんな。首都でも日中5、6時間も停電する国のわりに、やけに立派な学校だな。そのときは、そんな風にしか思わなかった。
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