Tanimichi World Blog

世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

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鄭州から開封へ~人口9700万大雑踏の巻

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開封のモスクで(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 鄭州の駅前広場は、荷物を地面に置いて、座り込む人たちだらけだった。彫りの深い顔立ちの男たちはウイグル族だろうか。中国鉄道屈指の大ジャンクション。北京と広東を南北に結ぶ幹線と上海とウイグルを東西に結ぶ幹線が交差するところである。
 ここ河南省は南北に長い中国のだいたい中間にある。面積は日本の半分弱なのに人口は9683万人で中国一。中国という大雑踏のスクランブル交差点みたいなところなのである。
 切符売場には長い行列ができていた。必要事項を書いた紙を窓口に手渡す。返事は「没有」。メイヨーが「ねえよ」に聞こえる。何度か並び直した末に、18番窓口へ行けと一喝された。温声服務窓口、切符の販売は不可、などと書いてある。ここの女は怒鳴らない。我是外国人、とたどたどしく言ったら、予約をしてくれた。なるほど温声服務か。普通の窓口は態度が悪いので、わざわざ“穏やか対応窓口”を用意している。中国らしい。
 北京行きの切符を確保してから、1時間半ほど東の開封という町へ向かう。北宋の都だった古都である。土色のレンガを積み重ねた粗末な家が密集する路地が這う。湿っぽい風に埃が舞い上がり、糞尿の匂いが漂ってくる。路地の先々には公衆便所。民家には個別の便所がないようだ。ここでは白い帽子をかぶった老人が目につく。回族と呼ばれるイスラム教徒だ。ペルシャとかアラビアの方から移り住んできた人たちの子孫だという。
 回族区を歩き回るうちにモスクを見つけた。思えばこの旅で足かけ5か月間イスラム教徒が多い国で過ごした。そこで出会った人々は、実に人情深く、何度も助けられてきた。中国のイスラム教徒に会ってみたいと思い、モスクの門をくぐった。
 サラーム・アレイコム。不審そうに僕らを見つめていた境内の人たちに声をかける。破顔一笑。矢継ぎ早に質問攻めにしてくる。イスラム教徒はどこに行ってもみなこれだ。中国語を日常語にする回族とは、当然筆談ができる。アラビア語を教える先生と生徒たちだった。はるばる中近東から中国にたどり着き千年。顔立ちも言葉もまわりの漢族と見分けがつかなくなっても、宗教風習を守り抜いている。誇り高い人々である。
 だいぶ経ってから、河南省で回族と警察が衝突したことを知った。開封のモスクで会った人たちはどんな感想を聞かせてくれるのだろう。
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武昌から鄭州へ~列車は華中への巻

»カテゴリ: 中国

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筆談をしているとたちまち人だかりが(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 武昌を出発した特快124列車は、長江をまたぐ長い鉄橋を渡ると、平らな大地を快調に飛ばし始めた。中国の列車は速い。僕らが乗った武昌-鄭州間は536キロ。これを5時間18分で走る。平均時速は101キロである。この列車は、広州から一直線に北へ向かう京広線を進み、武昌、鄭州を経て、はるか北の長春まで向かう。走行距離3313キロ、所要時間36時間23分。広い中国大陸の南から北へ走りぬける。
 僕らの向かいと隣の6人がけの席に座る一家は、南京から河南省の鶴壁という町に行くらしい。どこから来たのか、どこへ行くのか、などと聞いてくる。地図で旅の経路を説明して、相手の名前を聞いてみる。向かいの席に座った中年の男性が強い筆圧でなにやら書いている。我ハ貴方達ニ問ウ。1鶴壁市ニテ仕事シタイカ、2鶴壁市ハ発展スルト思ウカ、3我ノ名ハ劉究章。
 このおじさん、初対面の僕らに仕事を斡旋しているようだ。鶴壁市がどんなところかも分からないし、中国語ができない僕らにできる仕事などあるとも思えない。生真面目なおじさんは箇条書きで返事を書き始めた。主要産業、1煤、2発電、3電子工業・・・。市政府に勤める偉い方のようだった。真に受けて鶴壁市に行ったらどうなるのだろう。
 筆談合戦になった。一家のお母さん、その息子の大学一年生、席がなくて廊下に立っていた男性も参入してきた。息子と英語で話してくださいな、アイ・アム・イングリッシュ・不好、私の田舎はねえ、昔日本人たくさんいたんですよ、あなた満州国知ってますかい。
 そんななか、何列か後ろから初老の男がやってきた。僕に新聞を手渡し、人差し指で紙面を叩きながら、語気荒くなにか言った。指差した記事は、日本政府が国防政策を転換して、中国を敵視しているとある。一家は慌てて、その男を追い払い、記事を捨てようとした。僕は彼らを制して記事を読み、旧満州国出身の男性のノートに返事を書いた。僕の父や母方の祖父が戦前戦中に中国大陸に住んでいたことを書いた。お母さんが僕のメモを音読するのを真剣な顔になった彼らは、いちいち相槌を打って、頷いていた。
 考えてみれば、この列車が走る線路を60年前には日本兵を載せた軍用列車が走っていたのだ。日本にとって因縁のある土地に入った。

長沙から岳陽へ~唐辛子催涙ガスの巻

»カテゴリ: 中国

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紐につながれた猫(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 湖南省に来た。食堂に面する路上。油が敷かれた中華鍋に唐辛子がぶちまかれる。通り過ぎるだけで目が痛くなり、咳き込む。まさしく催涙ガスだ。宿に帰れば、やはり刺激臭が充満していた。部屋の真横が台所になっていて、従業員が調理している。湖南の料理は辛いことで有名とは聞いていたが、実に凄まじい。ラー油の中に具材が浮いている要領で、具材がまた塩辛いことが多い。干物を多用するからだ。これを咳き込みながら食う。
 湖南の言葉もまた広東語とは全然違って聞こえる。ズダラッ、ズダラッ、と末尾だけが耳に残る。もう椰子は見かけない。短パンをやめて、長ズボンとセーターを着込む。一夜移動しただけで、真夏から秋になり、別の料理、別の言葉の土地に来た。中国は広い。
 長沙、韶山を経て岳陽に着いた。猫が路地を徘徊し、子供が市場をすり抜けて遊ぶ。湖畔の道を進めば、先に古い塔楼が見える。気づけば夕陽時。斜陽に彩られた道に紐につながれた猫がいた。中国では時おりこんな猫を見る。つながないと逃げる、と飼い主は言う。一日中、子どもにからかわれて哀れな猫だ。
 歩き疲れて食堂に入った。店頭の蒸篭を空けてもらうと、小皿に肉や野菜が入っていた。蒸菜というらしい。素朴な料理だが、これがうまかった。薄切りの蓮根がしゃきっと口の中で音を立てる。肉には大麦か何かの穀物が和えてあって香ばしい。蒸菜は岳陽の料理なのだろうか。和華子が店主に尋ねたら、そうではないという。これをきっかけに店主がおずおずと近寄ってきて、話しかけてきた。あなたたち日本人でしょう。雰囲気でわかりました。私の妹は東京に住んでいるんですよ。そう言って、頼んでない皿を運んできた。湖南の人は、過激な料理が好きなわりには、話してみると穏やかで素朴な人だと思う。妹が日本人に世話になっているから、と僕よりふたつ年下の店主は言い、どうしても代金を受け取ってくれなかった。
 岳陽の猫路地を散策し、杜さんの蒸菜をタダで食べて、何日かを過ごした。そろそろ出発しないとならない。一週間もすると、「十一黄金周」と呼ばれる連休が始まる。どうせ足止めをくらうなら、見どころが多そうな北京にしようと考えた。杜さんに見送られて、僕らは岳陽の駅から京広線の上り列車に乗った。
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