Tanimichi World Blog

世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

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那馬~華僑の源流を訪ねての巻

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那馬村の子どもが麻雀牌で遊ぶ(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 いままで会った旅人は数多いが、炊飯器を携帯していたのはピーターだけだ。
「どこでも米が食える、魚を蒸せる、お湯も沸かせる。こんなにいいものはないぜ」
 昨年の12月30日、凍える寒さのテヘランの安宿で彼に会った。香港生まれの彼は、なにを語るにせよ合理的に説明した。湯のみは洗わない、茶で変色して汚く見えるだけ。ガイドブックはいらない、地図があればどこでも行ける。面白い人だなと思った。
 旅を終えた彼は、那馬村という農村にいた。鶏が放し飼いにされた路地の奥に建つ黒レンガ造りの家。好きなだけ泊まっていい、という彼の言葉に甘えて、一週間を過ごした。
「正確に言うと、ここに住んでいるわけじゃない」とピーターは断る。「旅を終えたばかりで今は仕事がない。ここは静かだし、香港で暮らすよりも破格に安い」。彼らしい説明が続く。中国の農村部では、固定資産税がかからない。水道や電気代は破格に安い。食事は自炊、村に遊び相手はいない。本は読みきれないだけある。金の使いようがない。
「この家はね、1926年に曽祖父が建てたんだ」。2階まで吹き抜けのこの家は、風通しがいい。ピーターが増築した台所と便所が離れにある。屋内と屋外の境があいまいなのが面白い。初日の晩、酒を飲みながら、彼が家の由来を話してくれた。
「祖父が新妻と入居して、僕の父が産まれたんだ。ところが、祖父は出稼ぎに行ってしまう。キューバだよ。なぜか、そのまま便りがなくなった。生活に困った祖母はシンガポールへ出稼ぎ、父は軍隊に入り、家族はちりぢりになったんだ」
 父は国民党政府の軍隊にいた。内戦後、敗軍とともに香港に渡り、家は共産党が接収。80年代に入ってから、華僑財産の返還が決まり、ピーターの手に戻った。那馬村には香港人が取り返した家が他にも何軒かあるという。家の話は、そのまま中国現代史だった。
 那馬村が属する台山市は、「中国第一僑郷」と呼ばれ、昔から海外へ人が出て行った土地である。近年になっても海外熱は冷めない。同じ路地から何軒もブラジルへ行った、故郷を捨てなければならないのは悲しいことだ、とピーター。しかし、同時に彼は「自分は中国人とは思わない。強いて言えば、香港生まれの人」と言う。週に2日しか市が立たない那馬村からキューバ、シンガポール、香港、ブラジルへ。人は故郷を捨て、旅に出て、違う人になる。
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陽江~観光ルートを外れの巻

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新興都市の夕暮れ(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 北海から北へ広西の首府、南寧に向かえば、観光ルートに戻れる。雲南省に行ってもいいし、北東には桂林がある。しかし、僕らはそのまま東シナ海の沿岸を辿って東進したいと思った。観光地を外し、普通の町を見たいと思ったのと、もうひとつは、旅で出会った人を訪ねるためだ。9か月前、師走のテヘランで会った香港生まれのピーターが広東省にいる。中国に入ってから電話をかけた。北海から陽江行きのバスに乗り、北徒行きに乗り換え、更に台城行きに乗ると、およそ10時間後には彼のいる村に着くということだった。
 北海から7時間かけて到着した広東省陽江は、観光地ではないようで、一千ページ近い僕らのガイドブックにも載っていない。中国にも慣れてきたし、なんとかなるだろう。ここに泊まってみよう。今までと同じように、バスターミナルから乗った摩托(モーター)三輪車は、立派な幹線道路を走りに走り、ビルが並ぶ新興都市に入った。繁栄した産業都市みたいだ。
 初老の運転手は、道すがら適当に宿を見つけては、あれはどうですかね、と自信なさそうに仕草する。もともと安宿など知らないのだ。バスターミナルで買った地図を手に、中心部らしき方角へ運転手を誘導し、賑やかな交差点で下ろしてもらった。
 そこから徒歩1分、見つけた宿は城東旅店。二人部屋なのに25元(約320円)。カンボジア並に安い。宿主は僕らが日本人と知って、奥さんと相談した末、いいんじゃないの、となって、泊めてもらえた。中国に入って3都市目。町は大きくなるのに、宿代は下がる一方。
 陽江の公衆電話屋で和華子がまた若い女の子と仲良くなった。この子も英語がかなりうまい。湖南省の大学を卒業して、1年前に陽江の貿易会社に就職したミンちゃん。とても早口で、頭の回転が速い。電話屋の前でわずかの時間、立ち話をしているうちに、「あなたはものを書く仕事をしている人ですか」と言う。どうしてそんなことがわかるのだろう。勘がいい人だ。彼女に連れられ近所の茶屋に行く。僕らを席に着かせた後、勘定場で店員と話しこんでいる。戻ってきた彼女が滑らかに言った。
「あなたたちの分の注文と支払いを済ませて来ました。実は私、いま20元しか持ち合わせがなくて」
 この国の人は実に面白い。

北海~一帆風順、老街の巻

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北海の老街(2004年)
Photograph by Kenta Tanimichi


 東興から直達快班(急行バス)で東へ3時間、海南島に近い沿岸都市、北海に着いた。バスターミナルを出たら、三輪車と呼ばれるオート三輪の運転手に取り囲まれた。1元(約12円)で安宿に案内してもらうことで妥結。乗って間もなく竜門招待所に着いた。50元、トイレ、シャワー、テレビ付き。部屋を見せてもらい、宿主に「好、好」。返事がさっぱりわからず、筆談ノートを渡す。「身分証」とあるから、パスポートを差し出すと、宿主は怪訝な顔。あらま、あんたたち日本人なの。
 いままでのやり取りで、僕らは中国語が全然できないと分かっているはず。なのにパスポートを見るまで、中国人だと思い込んでいたようだ。中国語は方言の差が大きく、普通話(北京語、標準語)が上手でない人が多いと聞く。僕らを普通話が苦手な中国人と思ったのか、あるいは宿主が自分の普通話に自信がないのか。面白くなってきたぞ。ここ北海は、広西チワン族自治区の西端にあり、広東省に近い。地元の人が話す言葉は広東語が多いようだ。
 食堂でも同じようなやり取りが展開される。広東語でレイホウと言って店に入り、メニューを物色する間に、店主がワーワー話し続ける。全く分からないが、適当に相槌を打って、できるだけぞんざいな仕草で料理を指差す。このとき日本語にデタラメな抑揚をつけて言ってみる。なぜか通じる。僕らのことを方言のきつい奴らとでも思っているのだろう。外国人扱いされないのは、気持ちいい。解放感みたいなものを味わう。
 中心部にある竜門招待所の周りは、古い町並みが残る。道の両側の建物は、2階以上が迫り出して庇になった造り。1階部分の道路際は、雨に濡れず、陽射しが遮られた歩道になるのが南国らしい。どんより雲が覆う日、風雨に荒んだモノトーンの老街。家の玄関口に決まって貼られた赤い紙には、どれも一帆風順とあった。近くに漁港がある。
 老街の歩道で、老人は煙草をふかし、猫は寝そべる。麻雀牌がかき混ざる音があちこちから聞こえてきた。家族麻雀の卓を見つけ、覗くが、日本とはだいぶルールが違うようだ。捨てた牌は並べずに投げつけ、無言でどんどんポン、チーをし、上がる。誰かが上がると、すぐに洗牌するから、上がり役は分からずじまいである。

東興~隣の芝生は汚く見えるの巻

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東興の茶屋で(2004年)
Photograph by Kenta Tanimichi


 宿の近所のインターネットカフェで和華子が店員の女の子と仲良くなった。旅をしていて知った和華子の特異な才能だ。どこでも子どもと若い女の子に仲間扱いされる。僕がインターネットをし終わる合間に翌日、店員の子の家にお呼ばれする約束までしていた。
 そんなわけで翌朝9時、僕らは18、9の女の子4人と朝食を共にしていた。高校を卒業したばかりで、ひとりを除き、翌月から大学に入学する。昨夜、和華子がインターネットカフェの受付で、日本語ガ使用可能ナ電脳有ルカ、とデタラメ中国語メモを渡した。店員の子は、口を手で覆い、目を丸くして、英語で言った。「日本人に会うのは初めてです。私はとても嬉しい」
 彼女たち4人組が日本のポップカルチャーに通じていて驚いた。浜口あゆみ、SMAP、ちびまる子ちゃん、クレヨンしんちゃん。カタコトの日本語まで話す。こんな僻地で育って、どこで知ったのだろう。テレビですよ、とあっけらかんと答える快活な小路ちゃん。もっとも、「私たちハーハンなんです」。「哈韓」と書き、韓国ポップカルチャーが好きな人たち、の意味らしい。僕らが旅に出た後になって、日本では韓国ドラマが大ヒットしているが、これは東アジア共通の現象のようだ。ミャンマーからベトナムまで、昼過ぎの市場を歩くと、店番をする女性たちが韓国ドラマに食い入る光景を目にした。ここ中国でも、韓国カルチャーが若い女性の心を捉えている。日本カルチャーは、ちょっと古いらしい。
 東興の中学で同級生だった4人組にベトナムの話をすると、いい顔をしない。ベトナムは経済的に遅れていて、汚い国。彼女らがバイトするインターネットカフェから5分も歩けば国境だ。川を渡って、毎日ベトナム人女性が物売りにやってくるのを目撃している。なのにベトナムに行ったことすらない。いままで訪れた国境の町で何度も似たような話を聞いてきた。隣の芝生は汚く見えるのである。
 彼女たちは日本のアニメを見て育ち、韓国のドラマに心ときめかせ、英語を磨いて、一月たたないうちに、別の地方へ散っていく。きっと5年後、10年後には、彼女らの何人かはどこかの外国に住んでいるような気がする。そのとき、彼女たちとまた会ってみたいと思った。

モンカイから東興へ~アジアの巨星・中国の巻

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国境の中国側。「三輪車」が客待ちする(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 中国が近づいている。中国人団体客がハロン湾の観光地を闊歩し、看板に漢字が目につく。夜に宿を出たら、赤い口紅の女たちが中国語で艶っぽい声をかけてきた。僕の顔は中国人に見えるらしく、いままでも世界各地で中国人に声をかけられてきた。
 国境の町モンカイは、いっそう中国色が強い。国境検問所に近い安宿では、英語は通じないが、中国語は通じる。僕の中国語はせいぜい値段を聞いて、返事がわかるぐらい。まごついていたら、従業員が「退房十二点」と書いて寄こした。チェックアウトは正午。ベトナム人なのに漢字も書ける。
 わずか20年数年前、中国はベトナムに侵攻した。いわゆる懲罰戦争である。90年代になり国境貿易が再開され、いまこの町ではショッピングセンターの建設が進み、売春床屋が目につく。モンカイの街を歩いて目にするのは、勃興するアジアの巨星・中国の影ばかりである。
 翌日、40日過ごしたベトナムを後にした。ベトナム側検問所から国境橋に出たら、対岸に「中華人民共和国」の赤い字が記された大きな門があった。中国に行くのは初めてだ。物価が高いと散々聞いていた。英語は全く通じないらしい。北京のサッカーファンが日本公使の乗った車を襲ったことが問題になっていた時期。どうにも不安である。
 国境検問所を出たところは、広西チワン族自治区東興市。雨がたたきつける街路に自転車リクシャとバイクタクシーがたむろしている。中国語で声がかかる。やるしかない。
「我們是日本人!我們要便宜的飯店!」(我々は日本人。安宿が必要である)
 運転手たちの視線が一斉に集まる。次の瞬間、口々に騒ぎ出す。四声を全く無視したデタラメ中国語だが、不思議と通じた。仕切り屋風の運転手と筆談。50元(約640円)の宿があるという。ベトナムと大して変わらない。合意して、バイクに跨り、雨の街を進む。連れて行かれた宿は70元。冷房、テレビ、シャワー、トイレ付きだから悪くない。宿代を払う段になり、また筆談。「押金」を払え、と言われている。デポジットのことらしい。筆談すれば、だいたい意思の疎通ができるのが楽しい。
 街の看板もだいたい分かる。食堂に入り、ぶっきらぼうに「シャウロンパウ、イーガ」と言い放つ。ちゃんと通じる。笑いを押し殺しながら、二人で不味い小龍包を食った。

ハロン湾~「僕があいつで、あいつが僕」の巻

»カテゴリ: ベトナム

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ハロン湾(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ジョーの両親を乗せた小船は、ブンタウ沖を出てから8日間漂流した。母は妊娠中で、11か月の乳飲み子を抱えていた。餓死寸前だったらしい。ようやくイギリスの船に救出されたとき、食糧はもう尽きていた。
 階下にいるにこやかなお母さんがそんな経験をしたとは思いもしなかった。そして、彼女の腹の中にいたのは、さっきまで話をしたジョーの姉である。乳飲み子だったジョーの長姉は弁護士になったという。
 ジョーの父は、渋るイギリス船の船長を口説き落として、イギリスまで連れて行ってもらった。
「もし、イギリス船ではなくて、日本の船だったら、僕らはいま日本語で会話をしているだろうね」とジョーはそう言って、僕らは笑った。ジョーの両親と11か月の姉を乗せた船はイギリスに着いた。そこで彼は生まれ、のちにアメリカに移住したので、イギリスとアメリカの国籍を持っている。
「ある日、サイゴンの街を歩いていて、自転車に乗った同世代の男とすれ違って、ふと思ったよ。もしかすると、僕があいつで、あいつが僕だったかもしれないな、ってさ。妙な気分になったよ」
 僕にも思い当たる体験があった。5年前、16年ぶりに小学校時代を送ったカナダのバンクーバーに行った。連絡が取れた旧友は様変わりしていた。日本語ができなくなっていたのだ。僕が知っている頃の彼は、日本の流行に通じていて、英語がそれほど得意ではなかった。僕よりも何年か後にカナダに移ってきたからだ。16年後、彼は僕を連れて洒落たレストランに行き、ウェイトレスに気の利いたことを口にして、笑わせていた。奇妙な気がした。僕の両親が彼の両親のように、カナダに移住することにしていたら、僕は彼のようになっていたのかとふと思った。
 両親が脱出を諦めていたら、途中で捕まっていたら、死んでいたら、イギリスではない国に行っていたら・・・。人は親の決断や運命のさじ加減で別の国の人になったり、ならなかったりする。ジョーと僕は、夕陽の時間までそんな話をして過ごした。

ハノイからハロン湾へ~僕の両親はボートピープルだったの巻

»カテゴリ: ベトナム

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早朝だけ安宿の前の道は朝市になる(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ハノイの宿から、はす向かいに伸びる狭い通りは青空市場だった。市場で働くベトナム人はいつもなにか手を動かしていないと済まないようだ。葉野菜は長さを揃えて紐で縛る、果物は4分の1ほど皮を剥いて陳列する、臓物はきれいに洗って水に浮かべる、エビは殻を剥いて石で叩いてペーストを作る。品物はどれも生き生きしていて、美しい。
 メコンデルタから北へ2000キロ、ハノイまで来た。気候も食も南部とはだいぶ違う。南部では、雷鳴に気づいたと思えば豪雨に襲われ、汁麺に生もやしとミントの葉を豪快にぶちこんで食べた。ハノイの雨は、日本の梅雨のように寂しげである。麺の薬味は葱だけ。物足りない気がする。
 バンコクからエノモト先輩がやってきて、また高級料理を奢ってもらったりして、数日が経った。これから中国へ抜けようと思う。名勝ハロン湾に行くツアーに参加し、現地でツアーを離脱して、国境へ向かうことにした。ハロン湾から海沿いに東へ150キロほど進んだモンカイに陸路国境がある。ツアーに含まれる食費や宿泊費を考えると、自力でハロン湾へ行くよりもはるかに安いのだ。ベトナムの現地ツアーの安さにはいつも驚かされる。
 海に岩山が点在するハロン湾を観光船で巡る。ツアー参加者の中に、ヴィエトキウ(越僑)一家がいた。ベトナム戦争の終結前後、大量に国外脱出した人々だ。いまはカリフォルニアに住む母と息子とハノイで働く娘。昼下がりのハロン湾をゆっくりと進む観光船で、彼らはそんな風に自己紹介した。僕らがベトナムの旅の印象を話して、彼らが感想を言ったりした。陽気でいかにもカリフォルニアの若者っぽいジョーが僕を観光船の屋上に誘った。海は岩山に茂る木々が反射するのか緑色だった。
「今回の旅でブンタウに行ったんだ」。屋上に座り込んで、ジョーが語り始めた。サイゴンに近い海辺のリゾート地である。「僕の両親は、ベトナムを離れる直前にしばらくブンタウにいたらしいんだ。母が20数年ぶりに行ってみたいと言い出してね。親戚筋が浜辺で地所を持っていて、そこで脱出するタイミングを計っていたらしんだ」
 脱出って、まさか船で出国したのか。
「そう、僕の両親はボートピープルだったんだ」

ドンホイ~静かな漁港のつつましい女の子の巻

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安宿から見たドンホイの風景(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 フエから乗った一般バスは、窮屈このうえない。満員で出発したが、おかまいなしに客を拾う。ふたりがけの席には3人目を押しやり、補助椅子を開いて座らせ、ドアステップに立たせる。途上国のバスは、どこでも満員にならないと出発しないが、ここまで詰め込むのは思い出せない。もう身動きは全くできない。切符代は16倍ふっかける、乗り心地は最悪、冷房はない、となると、外国人がみなツアーバスに乗るのも無理はないだろう。
 僕の左隣はおとなしい小学生ぐらいの男の子で、ビニールに入った小魚を手にしている。車は古都フエから北へ進み、水郷地帯を走りながら、こまめに客を拾い、下ろす。いくつかの町をすぎ、土が露出した大地が広がった。そろそろ旧DMZに入ったはずである。非武装地帯のことで、1975年に南北ベトナムが統一されるまで、緩衝地帯であった。英語の得意な乗客のホテルマンに、そろそろ昔の国境に差しかかりますよ、と話してみる。実際に昔の国境橋を越えたとき、彼は周りの乗客に僕の情報を伝えたが、誰も興味がないようだった。統一してから30年近く経ったのだから、そんなものかもしれない。統一前から社会主義体制にあり、戦争に勝利した北ベトナムに入る。
 発車してから5時間後、バスが止まった。車掌が僕らに「ここで降りろ」と言う。窓から飛び降りろ、と周りの乗客。補助席が埋まっていて、ドアまでたどり着けないのだ。静かな漁港がある地方都市ドンホイに着いた。
 この町では英語はほとんど通じない。いままでの外国人慣れした町とは大違いだ。市場で売られるものは漁具が多く、うるさい客引きもいない。かわいい女の子が店番をしている雑貨屋が見つけて、石鹸と煙草を買う。交渉しなくても安いのがありがたい。
 夕方に市場に近いカフェでアイスコーヒーを飲む。僕はアイスコーヒーが好きではなかったが、ベトナムに来て変わった。この国のコーヒーは実にうまい。フランス帝国主義の置き土産である。偶然、昼間の雑貨屋の子がカフェに入ってきた。恥ずかしそうに和華子と話す19歳。明日、昼の11時にこのカフェでまた会おう、ということになって、出向くと、また恥ずかしそうにプレゼントと手紙を和華子に差し出す。アオザイを着た自分の写真まで入っていた。映画に出てくる昭和30年代の日本人みたいにつつましい。

フエ~16倍はやりすぎであるの巻

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走行中にカメラを取った和華子も勇気がある(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ホーチミンからムイネ、ニャチャン、ホイアンを経由してフエまで行った。ベトナムを縦断する国道1号を海岸に沿って北上する。南北に細長いこの国では、たいていの旅人が同じようなルートを外国人用のツアーバスで移動することになる。ツアーバスの方が鉄道や一般のバスよりもはるかに安いのだ。これに乗ると旅は楽である。郊外にあるバスターミナルまで行かなくていいし、バス代を交渉しなくていい。安宿も斡旋してくれる。
 ただ、楽すぎると旅はつまらなくなる。フエからは自力でハノイに行くことにした。バスターミナルまではバイクである。ベトナムでは、バイクで市内移動する。15キロはある、縦長のバックパックを運転手の足元に立て、僕は後ろに乗る。ヘルメットはない。
 バスターミナルは中心部からバイクを飛ばして15分。客引きが群がってくる。
「ドンホイに行くんだな、フォーハンドレッド、フォーハンドレッド」
 40万ドンのことか。ベトナム人は、値段を1000分の1にして口にすることがある。40万ドンは2800円ぐらい。160キロの移動がそんなに高いわけがない。ツアーバスなら、ホーチミン・ハノイ間1700キロが2000円弱なのだ。40万が30万になったが、信用ならない。バスターミナルの建物に入ると、黒板に2万5000ドンとあった。客引きの言い値は定価の16倍だったのだ。
 いい根性をした奴だ。いままで方々でふっかけられてきたが、高くて5倍、だいたいちょうど2倍が多い。16倍はいくらなんでもやりすぎである。
「2万5000はベトナム人、ユーは外国人。荷物も多い。20万!」
 客引きは懲りずに理屈をこねる。ここまで渋といと、呆れてくる。もうドンホイに行けなくてもかまわない。気を楽にして、建物の前に荷物を置いて、腰掛けた。
「わかった、わかった。運賃が5万、荷物代が3万の計8万!」
「荷物代なんか払わないぞ。他の客はでかいダンボールを持ち込んでいるじゃないか」
 結局、ひとり4万、荷物代なしで手を打って、バスに滑り込むと、ベトナム人も同じ金額を支払っていた。どうなっているのかわけがわからない。家畜まで積んだ寿司詰めバスは、のろのろと北へ向けて走り出した。

ホーチミン~変貌した街の巻

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豪雨のなかバイクが走り抜ける(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 市内はバイクの洪水だった。バスターミナルから乗った市バスは、クラクションを鳴らしてバイクをはね退けながら進む。冷房が効いた快適な車内から見たサイゴンは、人通りの多い、華やかな大都会になっていた。
 公式にはホーチミン市と呼ばれるこの街に初めて訪れた1991年。そのときは、渋滞なんかなかった。空港からの旧式ルノーは、静寂と暗闇の街に不相応な並木道を通って、市内に向かっていた。社会主義全盛期だった。短期間の旅でも外国人登録やら国内旅行許可やらが必要で、外国人旅行者は数えるほどしかいなかった。
 いまサイゴンにはアジアでも有数の安宿街がある。インド料理から和食まで、ビザの延長からガイドブックの海賊本まで、ホーチミンTシャツからマリファナまで、なんでも揃う。あのサイゴンに戻ってきた実感が沸かない。
 各地で出会った旅人と再会したりして、この街で1週間を過ごした。13年前に泊まったホテル、訪れた博物館や市場、出合った人の家を歩き回った。小汚い国営百貨店は冷房がギンギンに効いたショッピングセンターになっていたし、毎日遊びに行った一家の家は食堂になっていた。記憶していたサイゴンの薄汚れた風景は、純白とクリーム色に塗り替えられていて、レロイ通りを行く人々はみな忙しそうにしている。ベンタン市場前のロータリーで、青空に浮かぶ入道雲を見て、やっと見覚えのある場所に来たと思った。
 大学に入った年から毎年のように旅をしてきた僕にとって、サイゴンはもっとも強く印象に残る土地だった。ベトナム戦争が終わってから16年も経っていたのに、残滓が色濃く残っていた。シクロの運転手はテキサス訛りのべらんめえイングリッシュで窮状をまくしたてていた。戦時中、テキサスのどこかで訓練を受けた南ベトナム空軍のパイロットたち。まともな職に就けない、共産主義者がベトナムをダメにした、国を出たい、と口々に言った。市場の売り子をしていた20歳の女の子に求婚された。冗談かと思い、あしらったら、大真面目な顔で、いかにベトナムには未来がないかを訴えた。
 いまサイゴンの人たちはなにを考えているのだろう。ふらふら街を歩いている外国人に声をかけてくれるのは、屈託のない物売りだけである。

チャウドック~フランス語を話す運転手の巻

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チャウドックの市場(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 バスが止まって、目が覚めた。メコンの川原にいた。ラオスでは、小船でこの大河を遡った。今度は流れに従って南下する。目指す先はベトナム国境だ。
 芝生の中のカンボジア側国境事務所で出国印をもらい、5分ほど緩衝地帯を進んだところにベトナム側の検問所があった。上陸したとたんに物売りの子どもが襲いかかってくる。ユー・ワン・チューインガム? ハウ・アバー・コーク? 草色の制服が吼え、子どもは散る。短い音が激しく変調するベトナム語の罵声。銃声みたいな言葉だ。
 陽気でのどかなカンボジアから5分進んだだけの国。血の巡りが速い人たちが怒鳴りあい、走りまわる。船を乗り換えて2時間後、メコンに面する地方都市、チャウドックに着いた。オートバイをすり抜け、水浸しの市場で海藻と小魚の目玉状の物が入った飲み物を飲んだ。帰り道に酔っ払いに呼び止められた。なぜかえびせんを浮かべたビールを差し出してくる。呷ると、男たちは大喜びして、こんどは焼酎を勧めてきた。陽気な人たちだ。
 この町でオートバイの運転手に話しかけられた。カンボジアで生まれ育ったベトナム人、と滑らかなフランス語で自己紹介するムッシュー・ルン。
「プノンペンのリセでフランス語を勉強しておりました。トゥールスレンという高校です」
 クメールルージュの刑務所だった高校だ。数日前に行ったばかりの高校の見取り図を描く。ムッシューはA棟を指差して、ここが私の教室でした、と言った。拷問ベッドがあった部屋。1975年、彼は卒業を待たずして中退した。学校が閉鎖されたからだ。首都を乗っ取った共産軍は、全市民に「避難」を命じ、彼は地方の寒村に収容された。強制労働の日々が始まった。ときおり目をつけられた者が黒服を着た兵士に連行されていった。ひとりとして帰ってこなかったという。一年後、ベトナム人は申し出るように、と呼びかけがあった。誰も応じなかった。殺されるとしか思えなかった。その後も呼びかけは続き、結局ベトナムに引き渡された。両国の政治取引だったらしい。
 それから28年。彼は一度もカンボジアに戻っていない。いまだにベトナム語の読み書きは苦手というムッシューは、いつか必ず母校を見に行きたいと、そればかりを繰り返した。ここはカンボジア国境から2キロ離れただけの町である。
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