Tanimichi World Blog

世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

スポンサーサイト

»カテゴリ: スポンサー広告

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

プノンペン~高校の拷問室の巻

»カテゴリ: カンボジア

20050108182909.jpg

トゥールスレン高校跡の拷問室(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 1975年4月、クメールルージュと呼ばれた共産ゲリラがプノンペンに凱旋入城した。住民は即刻、市外へ避難するよう命じられ、首都は無人化した。新政権の蛮行はのちに世界を震撼させることになる。農村に送られた人々を過酷な強制労働に駆り立て、インテリや資産家、それに共に戦ってきた同志を抹殺した。その数、300万人ともいわれる。
 プノンペンの中心部からオート三輪で10分ほどの住宅地にトゥールスレン高校があった。無人化したプノンペンに高校は不要だ。ここは刑務所になった。外国諜報機関との関係を疑われるなど、人民の敵と目された多くの人々が収監、拷問された。
 殺風景なコンクリート造りの4階建てが4棟、中庭を囲む。順路に従い、A棟の1階に向かった。半分に仕切られた教室には、鉄製ベッドがひとつ置かれただけ。説明書きはない。マットレスはなく、鉄の骨組みが露になったベッドが異様である。どの教室も同じだ。鎖が無造作に置かれたベッドもある。タイルの床が黒ずんでいる部屋もある。血痕だろう。教室の窓から陽光が差し込んでいる。ここで収監者が拷問されたという。
 別の棟には、収監者の顔写真が張り出されていた。不思議なことに微笑んでいる顔もある。真面目な顔もあるし、明らかに引きつっている顔もある。皺だらけの老爺も10歳になるかならないかの少女もいる。人民服風の作業着を着た人が多いが、どういうわけか花柄のドレスを着た若い女性もいる。入口でもらったパンフレットによれば、収監者の総数は、少なくても1万499人、これ以外に子どもが推定2000人いたという。彼らはほぼ全員殺された。
 いまは博物館になった高校跡の入口には土産物屋がある。正門前には、バイク・タクシーの運転手がたむろし、飲み物を売る屋台も出ていた。小洒落たホテルまで建つ。わずか26年前まで刑務所として機能していたのに、なんという変化だ。そのころ、プノンペンは無人都市だったから、辺りはあらかた廃墟だったに違いない。非現実的な感じがする。
 正門前に陽気な運転手が待っていた。30代半ばぐらいか。僕と同い年なら、4歳から8歳までクメールルージュ政権下で育ったことになる。その間、子どもは洗脳され、悪行の尖兵に使われていたという。自分の親を告発することも奨励された。彼はどんな記憶を持っているのだろうか。まさか聞けない。車を走らせた。

* カンボジア大虐殺バーチャル博物館(ミネソタ大学ホロコースト・ジェノサイド研究センター、英語)
スポンサーサイト

シエムリエプ~遺跡で町で虐殺の本の巻

»カテゴリ: カンボジア

20050108181937.jpg

アンコール遺跡群で(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki

 カンボジアには3種類の通貨が流通している。法定通貨のリエル、米ドル、タイバーツだ。釣銭はリエルが多い。1ドル=約40バーツ=約4000リエル。慣れるまで頭がこんがらがる。物価は安い。シエムリアプの宿代は3ドル、タバコは1箱500リエルだから15円しないぐらいか。
 ただ、アンコールワットの入場料は別である。1日券が20ドル。恐ろしく高額に感じる。ちょうど旅に出て1年経ち、物価感覚が日本離れしてきた。日本円に換算すると、10円、20円のことで、値引き交渉したり、別の店に行ったりしている。
 朝5時、日の出のアンコールワットを見た。薄暗いなか、石造りの参道を進み、寺院を見わたす草地で日の出を待った。ちらほらと観光客が現れた。遠くでかすかに読経が聞こえる。草地の外れの林に橙色の袈裟が見えた。群青色の空に光が入ってきた。フラッシュが光り、英語やフランス語の会話が聞こえた。僧侶はいつの間にかいなくなっていた。
 わずか10年ほど前まで、アンコールワットを取り巻く遺跡群には、多くの地雷が埋設され、ときおり銃声が聞こえたという。遺跡によっては、武装兵士を雇って見に行くのがふつうだったらしい。この国は、ベトナムの戦乱が終わってからも、さらに20年間にわたり政変、内戦、大量虐殺が続いてきた。
 いまアンコールの遺跡群を見て回ると、物売りに取り囲まれる。小学生以下の子どもが多い。英語を自在に操る子もいて、売り口上もなかなかのものである。
「マダガスカルの首都知ってる? 教えてあげたら、お母さんが作った笛を買って下さい」
 1ドル、2ドルの買い物だから、必要なくても買ってしまう観光客も多いに違いない。和華子はFirst They Killed My Father(邦題『最初に父が殺された』)という題名の本を4ドルで買った。ポルポト政権時代の虐殺を描いたノンフィクション。カンボジアについて書かれた本はどこでも格安で買えるが、すべて海賊本である。
 遺跡を見物した後、すぐに首都プノンペンに向かってもよかったが、のんびりすることにした。ポルポト時代について書かれた本を読んで、予備知識を頭に入れたい。プノンペンには、カンボジア虐殺の博物館などがある。もう少し知っておきたいと思った。

* ルオン・ウン『最初に父が殺された―飢餓と虐殺の恐怖を越えて』(和訳、Amazon.co.jp)
20050108182358.jpg

アランヤプラテート~トイレを借りに不法入国の巻

»カテゴリ: タイ

20050108181834.jpg

カンボジアへ不法出国する女(2004年)
Photograph by Kenta Tanimichi


 アランヤプラテートからオート三輪のトゥクトゥクに乗って15分、カンボジア国境に着いた。国境のタイ側は、あたり一面市場である。衣服、食料品、日用品ばかりを売る小さな店がひたすら並ぶ。
 市場から検問所につながる道路を越えて、国境の川を見に行った。空き地を歩いて小川に近づく。タイ語で呼び止められた。黒い制服を着た男がなにか言っている。カンボジアに行くのか、と制服男が英語で言い直した。国境を見に来ただけだと釈明すると、男は表情を緩めて、世間話になった。陸軍の兵士だという。
 話をしているうちに、小川を渡って、若い女が土手を登ってきた。兵士になにか早口で言い、しきりに腹に手をあてる仕草をする。兵士は女をなだめるが、言うことを聞かない。結局、振り切ってタイ側へ走って行った。
「カンボジアの女でね、病気だと言うんだ。トイレに行きたいんだと。すぐに戻るからタイのトイレを使わせてください、苦しい、苦しい、って言うから、しかたなくて」
 のんきな国境だ。その後もカンボジアの子どもが5、6人、タイの方から走って来て、小川を元気に渡るし、別の女が言い訳をしてカンボジアに帰って行く。兵士は「子どもはしようがないんだけど、大人はちゃんと国境検査を通らないと困るんだよなあ」と嘆く。
 翌日、正規の国境でタイの出国印をもらって、国境の橋を渡る。カンボジアに入ってすぐのところはカジノが林立している。賭博が禁止されているタイから大勢の観光客がやって来るそうだ。カジノばかりの通りを歩いて、やっとカンボジアの入国検査場を見つけ、スタンプをもらった。
 ここポイペトからアンコールワットがあるシアムリエプまでの道は、悪名高い。舗装がされてないガタガタ道をトラックの荷台に揺られて6時間かかると今まで何度も耳にしてきた。気を引き締めて、トラックと交渉。荷台は200バーツ(約560円)、車内は250バーツ。僕らは冷房が効いた快適な車内に、一緒に国境越えをしたカナダ人のオレンは荷台に乗った。ワイルドな旅がしたいのだそうだ。4時間と風雨と縦揺れの末、日暮れ過ぎにシアムリエプに着いた。どんな国なのだろう。

チェンマイからバンコクへ~外人旅人租界から脱出できずの巻

»カテゴリ: タイ

20050108181644.jpg

バンコク中華街で(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 タイ最北端の町、メーサイからチェンマイに南下し、夜行でバンコクに出た。再び友人らと夜遊びにふけったあと、ディーゼルカーの3等車に乗って、カンボジア国境のアランヤプラテートへ向かった。
 足かけ52日間滞在した計算になる。この旅で最も長期間滞在した国になった。タイは居心地がいい。道路はきれいに舗装され、都市間バスが絶え間なく走る。予約などせずにターミナルへ出向けばいい。乗り心地もいい。夜行列車の2等寝台は、インドあたりと違って、シーツや枕もあり、快適。24時間営業のコンビニが田舎町でもある。食事もうまい。それでいて、なんでも安い。一番安かった部屋が1泊80バーツ(約220円)、首都バンコクでも160バーツで泊まれた。これは二人部屋の料金だ。
 ただ、ふと思い返すと、長くいたわりには地元の人と話すことがなかった。宿の従業員と必要に迫られて話をするぐらい。町をぶらついていて、話しかけられたことが一度あっただけだ。バングラデシュ人だった。大学時代から数えて、タイに来たのは今回で8度目になる。今までも偶然の出会いに乏しかった。タイ人の気質なのだろう。歌うように優雅に話し、めったに声を荒くしない人々。市バスに乗っていても、仏像のある交差点でひっそりと手を合わせて会釈する人々。それでいて、下手なタイ語で道を聞くと、そっぽを向く人がいる。旅がしやすい国ではあるが、偶然のハプニングに乏しいところだと思う。
 地元の人との出会いがない分だけ外国人の旅人と遊び歩くことが多かった。チェンマイでは、宿からろくに出かけずに”沈没”していた。ラオスで一緒だった京都の健康優良児マユコちゃん、頭脳明晰なイスラエル人3人組、とあるカルト教団の指導者を父に持つ悩めるアメリカ人のスマ、泥酔して夜中に廊下で熟睡していたドイツ人の女の子マヌー。バンコクでは、ミャンマーで出会った早口のカナダ人オレンやフランス人カップルのパスカル&パスカルと遊んだ。沢村浩行さんという60年代から放浪旅行をしている方に素敵な旅の話を何時間も聞かせてもらったし、エイジさんにも再会した。
 旅に疲れ始めたのかもしれない。結局、外人旅人租界から一歩も出ずに、この国を後にする。次は26か国目、カンボジアだ。

メーサイ~対岸は暗闇の町の巻

»カテゴリ: タイ

20050108181510.jpg

ミャンマーに帰る人たち。
背後のトラックのそばに警察検問所がある(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 タイ最北端の町、メーサイにミャンマー国境がある。4車線に整備された国道1号のホテルや土産物屋を過ぎて、突き当たりの青瓦の立派な門をくぐった。国境橋がある。川幅は20メートルもなく、商店がせまる。建て込んだ町の中心部にある国境だった。
 ミャンマーのビザはいらない。5ドルを支払い、パスポートを預け、4時半までに戻ればいい。タイに再入国すると、30日滞在の許可がもらえる。この日帰り入国制度は、外国人のビザ更新需要をあてにしているようだ。タイの法律には抵触するらしいが。
 ミャンマー側のタチレイでは、偽タバコに偽CD、偽DVDと、怪しげな売り物が多い。ミャンマーの民族衣装を着た人が目立つ。歩道はガタガタで、泥水でぬかるむ。国境川に沿った道を上流の方角に向った。半キロばかり進んで川岸に出たら、僕らの宿の対岸だった。宿はタイ領メーサイにある。ミャンマーから自分が今朝干したばかりの洗濯物を見る。
 翌朝、宿の食堂で朝食を取っていたら、声が届くくらい先に川を渡る集団があった。上半身裸になって、バシャバシャと水の中を歩いて、タイからミャンマーに向かっている。どういうわけだろう。宿の女主人に話を聞いた。
「たぶんミャンマー人が国に帰るところじゃないのかな。バンコクあたりで捕まった人がメーサイまで送られてきてね、パスポートを持たない人だから、川を渡って行った方が都合がいいわけよね。400バーツ(約1100円)ぐらい払ってるみたいよ」
 正規の国境でミャンマー側に引き渡すと、不法出国の事実が記録に残ってしまう。そこで、不正規に送還をしてあげている話というだった。タイ側の警察検問所で事情を聞いてみた。
「そうそう、あそこの宿のところでね、ミャンマー人は渡っていいの。タイ人はダメ。あんたもダメだよ。渡ったら向こうの軍に捕まるよ。ミャンマーの人は毎朝こっちに来てね、夕方6時までに帰ることになってんの」
 片道15バーツ(約40円)の通行切符が必要らしい。両国の地元官憲が一応管理しているらしい。限りなくグレーな国境風景だ。日暮れの時間、ちらほらと川を渡る人が見えた。タチレイは暗闇だ。電力事情が悪いミャンマーらしい。発動機の音が風に乗って、国境を越えて聞こえてきた。

チェンライ郊外アカ族の村~山の海洋民族の巻

»カテゴリ: タイ

20050108180953.jpg

山岳民にも文明が及んできた(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 タイ北部のチェンライからアカ族という山岳民族の村に行った。まだ30代の村長が運転する四輪駆動車に乗って23キロ、40分。街道から折れ、土が露出した山道を登る。村に入った。
「ここはタイ人の村。次にシャン族、中国人の村。アカの村は頂上近く。まだ先だよ」。同乗したイギリス人のジョンが説明してくれる。アカ族のなにかに魅力を感じて流れ着き、7か月経つ58歳。四駆が最後の急斜面を這いつくばって、上りきったところに村があった。
 メコン中上流域は山岳民族の宝庫である。山岳民と盆地に住む農耕民とは、それぞれ独自の生活様式や言語を保って棲み分けてきた。タイ北部では、盆地にタイ族やラオ族が住み、山にチベットやミャンマーに起源を持つ山岳民や中国国民党残党の村々が点在している。
「アカの人たちは、いまでも町に出るときに『タイに行く』なんて言うんだ」とジョン。最近までタイ政府の支配が及んでいなかった。出生届を出さず、通学や投票などの公民権がない状態が続いた。最近は、中腹のタイ人の村に学校もでき、変わりつつあるという。
 この村では、村長が会社を興して観光客相手の宿泊施設を運営している。ツアーの売り込みがあるわけでもなく、あまり商売っ気がないのがありがたい。小雨が降る毎日、集落を散策して過ごした。標高1500メートルの斜面に高床式の小屋が並び、半裸の子どもが走り回る。村の女性は、自作した手芸品を並べて、手振りで売り込んでくる。タイ語で値段を聞いたが、返事はアカの言葉。大人はタイ語がわからない人もいるようだ。
 泊まった小屋から目前に広がる斜面に火がついた。まだ背丈の高くない草むらに火が走る。アカ族は焼畑農業を営む。ジョンの話では、彼らは一定期間農作をしては、土地が痩せるとともに別の山に移る。そうやって暮らしてきたが、政府の支配力が増すなか、定住を迫られつつある。
 この村には30世帯ばかりしかいない。丸一日歩いた別の山に、本村があるという。親族の行き来もあるし、村を越えた婚姻も多い。そうやって東はベトナムにまで広がるアカ族は、相互に交流を保っているらしい。盆地を海に例えると、アカ族の住む山の頂上付近は島になる。彼らは「海」には見向きもせずに、「島」を跳び回る山の海洋民族かもしれない・・・。日本人のアカ族研究家が残した冊子にこんな粋な文句があった。

* アカ族の村のホームページ「The Akha Hill House」

ゴールデン・トライアングル~むかしアヘン、いまカジノの巻

»カテゴリ: タイ

20050108181344.jpg

ミャンマー(左上)に渡る艀。右上の草地はラオス領(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ルアンパバーンからのスローボートは、丸一日かけてメコン河を遡り、パクベンに着いた。翌朝、同じような小船でまた一日かけて、上流のフエサイに向かう。静まり返った田舎町。メコンの対岸にコンクリートで固められた岸が見える。タイ領チェンコーン。
 メコン中流域は、古くはシャム王国の支配下にあった。19世紀、西洋列強が侵入した末、だいたいメコンを境に東岸が仏領インドシナ連邦に組み入れられた。政治的には別の国にはなったが、両岸の主要住民はラオ族であることに変わりはない。フランス撤退後は、東岸がそのままラオスになり、西岸はシャムを改名したタイ王国である。
 運賃20バーツ(約55円)を支払い、艀に乗ってメコンを渡る。対岸まで5分もかからない。15日ぶりにタイに戻ってきた。街並みも、聞こえてくる言葉も、人々の格好にも変化を感じない。同じ民族が住むのだから、無理もないだろう。
 チェンコーンからメコンを右手に見ながら乗り合いトラックは北上する。チェンセーンの近くでメコンは、西から流れてきた細い支流と合流する。この小川もまた国境である。北岸はミャンマー領、南岸はタイ領。北に向かって合流地点に立つ。右手に見えるメコンの対岸がラオス、目の前の支流に向こうがミャンマー、足元はタイ。3国の国境地点、いわゆるゴールデン・トライアングルにいる。
 タイからラオス、ミャンマーにそれぞれ渡る観光客用の小船が出ていた。ラオス領には土産物屋と郵便ポストがあると客引きが言う。土産物屋でラオスの切手と絵葉書を買って、投函すれば、ラオスに行った記念になるという趣旨らしい。「パスポートいらない、たった500バーツ(約1300円)」と連呼するが、別に面白そうに思えない。ミャンマー行きの船乗り場に回った。こっちはパスポートが必要だ。通行料を払えば、正規に出入国もできるし、出入国印なしで短期入国もできるらしい。対岸には高級ホテルしかない。林の中に赤い屋根の立派な建物が見え隠れする。中に免税店とカジノがあるのだそうだ。
 この辺りのメコン流域は、かつてアヘンの産地だった。ゴールデン・トライアングルの異称も麻薬産地の代名詞となっている。いま、その痕跡は、露店で売られるTシャツや絵葉書のケシの花ぐらい。俗っぽい名所である。

ルアンパバーン~樹海の盆地、茜色の空の巻

»カテゴリ: ラオス

20050108180730.jpg

ルアンパバーンの夜市(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 バンビエンを出ると、北へ向かう国道はやがて山にさしかかる。つづら折り状に斜面を上がる街道に面して、ときおり木でできた簡素な小屋が並ぶ一角があって、それを過ぎるとまた森林に戻る。小屋の周りには、粗末な格好をした子どもと籠を担いだ女性が通り過ぎるバスを珍しそうに見ている。首都から古都ルアンパバーンを結ぶ主要国道が通過する光景は、時代を超越したような感がある。
 東南アジア唯一の内陸国であるこの国は、人口わずか540万人。人口が少なく、山がちな地理条件も影響してか、人々の気質は穏やかで物静かである。ビエンチャンもバンビエンも観光客が少なくないが、ぼったくることもあまりない。
 国道13号は、ルアンパバーンで再びメコン河と接近する。盆地に開けたこの町で、頂上に黄金色の仏塔が立つ丘に登った。一面樹海である。なだらかな山も狭い盆地も木々が覆い尽くす。その合間を土色の鋭い屋根が見え隠れし、同じ色の濁流がくねる。傾いた陽が下界をしばらく眩く照らし、気づけば茜色の空が尾根を形取っていた。どこかで見た覚えがある風景だと思い、東京の美術館で見た東山魁夷の絵だったと気づいた。
 丘のふもとの王宮跡に面した通り。夕方から車両の通行が締め出され、市が立っていた。和紙でできた行灯、鮮やかな絹の織物、手織りの鞄や服が裸電球に照らされ、地面に敷いたむしろに浮かぶ。古都らしく巧みな職人技が残るこの町の一角に、和紙を作る工房があった。煎餅のような米の菓子を作る工房もある。川辺のレストランに入ったら、川海苔がメニューにあって、確かに海苔の味がする。ミャンマーのシャン州で日本と近い衣食文化があったが、ここもそうだった。
 数日後、名残惜しんでルアンパバーンを後にした。2週間しか滞在できないビザを取ってきたので、先を急がないと、不法滞在になってしまう。出発の朝、メコン河岸辺にある乗船券売場の前で待っていると、エイジさんが現れた。わざわざ送りに来てくれたのだ。またタイで会おうね、と彼は言い残して、僕らは細長い小船に乗った。船はメコンを遡り、岩を避けながら7時間かけてのんびりと進んだ。岩が多いこの河で、日暮れ後は船は通らない。今夜の宿は岸辺に山が迫るパクベンという寒村だ。

バンビエン~「ここは桃源郷だよね」の巻

»カテゴリ: ラオス

20050108180614.jpg

宿から見た光景(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 バンビエンに着いた。小さな市場を通り抜けて、裏手を流れる川につきあたった。ゆるやかな清流の向こうに、霞がかった岩山が間近に迫っている。川辺に面した宿に部屋を取った。ドアの前にベンチのあるポーチが伸びていて、毛糸の帽子をかぶった男が座り込んで、川を見ていた。こんにちは、と声がかかった。ここは桃源郷だよね--。
 ここではなにもしない。目の前に流れる川で泳ぎ、歩いてすぐの市場でおかずを買い、川と岩山を見ながらポーチで食べる。ラオスではもち米をよく食し、漬物と干し肉をつけ合わせにする。ミャンマーのシャン料理と似ていて、素朴だが味わい深い。雨季のいま、毎日豪雨が降っては、気温が下がり、とても快適である。晴れているときは、靄がたなびいて、岩山にかかる。曇ってくると、視界が一面、山水画の世界になる。日が暮れるまでポーチにいても飽きることがない。なるほど桃源郷か。
 この宿には、日本人の旅人が何人かいた。帽子でドレッドヘアを覆ったエイジさん。高円寺でバンドをやっている。「バンドをやっているヤツはさ、バンドのことになると、他に見えなくなっちゃうンだよね」。彼の語り口は、優しくて、静かで、この風景によく合うように思えた。エビネさんとナツコさんのカップル。もの静かで、礼儀正しくて、感じがいい。それから真っ黒に焼けた元気いっぱいのマユコちゃん。まるで健康優良児だね、とからかうと、「いつも皆勤賞もらってました」。京都のスポーツクラブのインストラクターだそうだ。数日後に、成田空港に勤めるラオス好きのサカモト君も加わった。
 旅をしていて、日本人とつるんで遊ぶことがあまりない。おかしな話だが、日本人とは打ち解けにくい気がしていた。お互い年齢が分からず、敬語っぽい口調になりがちで、どこか気を遣う。韓国人も似たようなことを言っていた。特に避けているつもりはなかったが、もしかすると同国人を面倒くさいと感じるところがあったのかもしれない。
 バンビエンでは、不思議と気を張らずに日本人の旅人と川の向こうの洞窟に出かけたり、名物料理を食べに行ったりして過ごした。年齢不詳、職業不詳、フウテンのエイジさんのおかげだろう。旅をしていると、不思議な魅力のある人との出会いがある。普段の生活のなかでは、言葉を交わさずにすれ違うだけの人。バンビエンに来てよかったと思った。

ビエンチャン~隣国の国歌が聞こえる首都の巻

»カテゴリ: ラオス

20050108180508.jpg

交通量が疎らなビエンチャン(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 今まで国境の町はできるだけ素通りしないように旅をしてきた。人為的に引かれた一本の線を境に、人々の暮らしや姿かたちがどう変わるか興味深く見てきた。スペイン・モロッコ国境は別世界が対峙しているようだったし、オランダ・ベルギーは何も違いが見えなかった。武装兵士に通された国境もあれば、食事を勧めてくれるのんきなところもあった。
 タイ東北部の町、ノンカイもまたメコン河の対岸にラオスを望む国境の町である。宿を見つけて、受付で値段を聞く。振り返ると、庇の下に籐の椅子とテーブルがいくつかあって、ビールを飲みながら、川辺の風景を眺める人がいた。褐色に濁った川が数メートル先に迫り、対岸の木立や疎らな建物が見える。ふと対岸はラオスではないか、と思い、席に座っていた若い女性に聞いてみた。多分そうだと思う、とイギリス訛りの英語が返ってきた。外国が見える宿というのも面白そうだ、ここに泊まろう。
 対岸はあまり大きな町ではないようで、人の姿は見かけないが、ときおり車が通る。右から来た車は、左から来た車と交差するとき、一瞬姿が隠れる。右側通行か。タイは左側通行だから、対岸はラオスで間違いない。
 翌々日、ラオスに渡った。10年ほど前にメコン河をまたぐ道路橋がかかっている。タイ側で乗った国境越えバスは、左側通行のまま橋を快走し、渡りきったところの国境検問所で終点になった。書類を埋めて、30ドルを支払い、ビザを取った。
 国境から15分ほど乗り合いのオート三輪に乗ると、もう首都ビエンチャンに着く。オート三輪以外は、原付バイクや自転車が行き交うぐらいで、交通量は少ない。人口50万人足らずのこの街もノンカイと同じくメコン河に接していて、対岸はタイである。
 ラオスの公用語であるラオ語は、タイ語と近い関係にあるようで、タイ語で注文しても大体通じる。通りを歩いていたら、タイの国歌が流れてきた。時刻は午後6時。タイのテレビから流れてくる。食堂では、テーブルにタイ製の魚醤の壜が置いてあった。隣の客はタイ製の缶コーラを飲んでいる。市場で洗剤と蚊取り線香を買った。やはりタイ製。街の雰囲気もタイとあまり違いを感じない。タイの田舎町をさらにのどかにしたような感じだ。
 国境を越えたはずなのに、あまり実感が沸かない首都である。

バンコク~ユーラシア街道・文明のオアシスの巻

»カテゴリ: タイ

20050108180152.jpg

数百軒の安宿がひしめくカオサン通り(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 バンコクに着いた。眩いネオン、アジア最悪級の交通渋滞、交差点ごとに見つかる7イレブン、闇夜を切り裂く稲妻と豪雨。ここは24時間眠らない街、ユーラシア街道の文明のオアシス、高温多湿の雨季の都である。14年前、インドからの飛行機がバンコクに着陸したとき、乗客が一斉に拍手したのを覚えている。そして、2004年5月、僕はヤンゴンからここに着いて、久しぶりに味わう便利さに酔いしれた。
 僕も和華子もこの街に住む友人がいる。彼らは、日本企業の駐在員や日本企業を相手に取引をする企業に勤めている。「東南アジアのデトロイト」の異名を持つタイには、日本の自動車産業があらかた進出していて、それらの企業を相手にした部品産業やサービス業が一通りある。バンコクの在留邦人は5万人に上る、という。
 連絡を取ると、友人らはみな、「悪いけどスクンビット通りまで出てきてくれないか」と返事をした。僕らの宿のあるカオサン通りは市内の西端の位置する一方、日系社会が集うスクンビット通りからは数キロ東。交通渋滞がひどいバンコクでは、移動に1時間以上かかってもおかしくない。僕らは気ままな旅人だから時間はいくらでもある。毎晩のように友人らと約束をしては、市バスに乗って、バンコクを横断した。
 ある晩、大学の先輩と待ち合わせた。居酒屋の暖簾をくぐると、ワイシャツ姿のサラリーマンが焼酎を飲み交わし、割り箸で刺身をつまんでいる。店主の女性がワイシャツ姿の先輩を見つけて、声をかけた。10日バンコクで過ごしては、東京へ10日間の買出しに行く生活が3年続いている、と店主。日本野菜や日本米は、タイ北部で取れたものを買いつける。刺身のツマまで文句のつけようのない味だった。手に入らない食材を尋ねたら、「ミョウガぐらいですかね」と若いウェイターがしばらく思い巡らしてから答えた。
 また別の晩、和華子の大学の同級生とその友人と待ち合わせた。狭い階段を上ったところに、カウンターが見えて、新橋あたりの居酒屋に入った錯覚を覚えた。イカの沖漬けやしめ鯖とつまみながら、彼らと焼酎を飲み交わして、旅の話を聞いてもらった。ここで旅を終えて、帰国してしまっても、違和感がない気もする。
 そうして2週間を過ごし、僕らは夜汽車に乗って、再び旅に戻った。

ミャンマーのとある町で~軍事政権の国の巻

»カテゴリ: ミャンマー

20050108180036.jpg

ヤンゴンの街角で(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ミャンマーは軍事政権の国である。1988年の民主化運動を弾圧して以来、国際社会との折り合いが悪く、経済制裁を受けている。グローバリゼーションから取り残されたようなところがある。コカコーラもATMもビザカードもない。ヤフーやホットメールなど大手のインターネットメールは、アクセスできないようになっている。反政府運動を恐れる政府が禁止しているのだ。
 旅行にも制限が多い。ビルマ族が主に住む平野部を除き、外国人の立ち入りがあらかた禁止されている。山岳地帯は政府の支配が十分に及ばず、反政府ゲリラが活動しているのだ。外国人が立ち入ると身の安全が確保できないとして、とられた措置である。
 ただ、気ままに旅をする上では、不便は多いが、政治的な圧迫を感じることは皆無に等しかった。イランでは、タクシーの運転手から、ホテルの従業員から、町で会う人から、何度も何度も政府批判を聞かされた。この国ではだいぶ様子が違う。むしろ、にこやかで穏やかな物腰の人々を見るにつれ、庶民はたくましく生きているな、と感じていた。
 そんななか、とある町で反政府活動をしている初老の男性に出会った。流暢な英語を操り、ユーモア交えて、いかにミャンマー政府が過酷な弾圧をしているかを語った。彼の親族には、官憲に身柄拘束され、行方不明になった人が何人もいると言う。身の丈に合わない軍事費が教育や医療をおろそかにしている、乳児死亡率が異常に高い、学校に行かない子どもが多い、昔は物乞いをする子どもなんていなかった、と嘆く。
「君ね、この国はいま原子力開発なんかに手を出しているんだぞ。ロシア人がピンウールィンに大勢やって来ていて、ミャンマー軍に原子力技術を教えているんだ」
 ピンウールィンで僕が見た技術学校を挙げると、「そうだよ、あそこだよ」と言って老人は身を乗り出した。「核兵器に手を出したりしたら、大事じゃ済まなくなる。学生を3000人殺しても平気な連中だからな」
 老人は3時間余りぶっ続けで話した。その老人は過去10年間、外国人の旅人と会うたびに同じ話をしているのだと言う。素通りしただけのミャンマーを見て、わかった気にならないでくれよ、との悲痛な叫びに聞こえた。

シーポからニュアンシュエへ~納豆、鯉のぼり、泡盛の巻

»カテゴリ: ミャンマー

20050108175903.jpg

シーポのそばのあぜ道で(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ミャンマーの北東部にシャン州がある。シャン族は自らをタイ(Tai)と呼び、タイ国のタイ族(Thai)と近しい関係にあるという。ミャンマーに行くなら、シャン州に行ってみたいと思った。東京の家のそばにシャン料理の店があって、なにを食べても実にうまかったからだ。店主はシャン族ではなく、ビルマ族。「シャンの方がおいしいから」とシャン料理の店を始めたきっかけを話してくれたのを覚えている。
 シャン州北部のシーポ。魚の干物、豆腐や高菜の漬物が並ぶ朝市を物色していたら、妙なことに気づいた。納豆の匂いがするのだ。この旅でたった一度だけ、スペインで口にしてから早9か月。何事だ、と匂いをたどると、果たして乾燥した黒い円盤状の物体であった。砕いて、炒めるらしい。中華料理で使う豆鼓かもしれない。
 数日後、同じシャン州のニュアンシュエで再び納豆にでくわした。イタリアンレストランから強烈な納豆臭がする。この匂いのするものを食わせろ、と店員にねじ込んだ。賄い食だから、と渋る店員を拝み倒して、ようやく対面したのは、納豆そのもの。ほかほかのご飯に載せて、ほおばる。唐辛子とともに炒めてある。香ばしく、実にうまい。ねばねば感はないが、納豆の味はそのままだ。まさかミャンマーで納豆が食えるとは思わなかった。
 納豆だけではない。駅で売っていた赤飯とかき揚げを買ったら、見た目も味も日本のものと違わない。漬物も日本の味に近い。沖縄の泡盛そっくりな味のする酒も飲んだ。ぜんまいもあるし、筍も食べる。鰹節のようなものまであった。ニュアンシュエの祭りでは、鯉のぼりや七夕の笹そっくりなものを担いだ子どもが町を練り歩く。あっけにとられていると、今度は日本の着物そっくりな色柄の服を来た女性たちがすまし顔で行進してきた。
 ただの偶然なのか。シャンの気候や風土は、日本に似ているのかもしれない。シャン州は標高500メートル以上の山岳地帯が多く、暑季でも平地と比べて、気温が低い。ブータンや中国雲南省でも日本と似た衣食文化があると読んだことがある。確かなことはわからないが不思議な気がする。女性の着物の起源だけはわかった。ヤンゴン在住の和華子の友人、横飛さんが教えてくれた。「キモノ・タメイン」といい、戦後になってから日本から伝わったファッションだという。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。