Tanimichi World Blog

世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

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ピンウールウィン~ヒルステーションの老人の巻

»カテゴリ: ミャンマー

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ピンウールウィンの目抜き通り。右にモスクが見える(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 摂氏45度もあったマンダレーを脱出して、標高1100メートルのピンウールウィンに来た。イギリス人は熱帯の植民地で暑さに業に煮やしては、高地に避暑地を建設して回った。単に余暇に来るだけではなくて、暑季の間、こうした“ヒルステーション”で植民地行政を司り、駐屯軍の拠点としていた。日本がイギリスの植民地だったら、軽井沢や蓼科に総督府の別館や兵営が置かれたかもしれない。
 英語の看板が目立つピンウールィンの目抜き通りで、インド人らしい顔つきをした男に声をかけられた。席を勧められるままに、骨董品を扱うその店先でくつろぐ人たちに挨拶する。ネパール、ベンガル、パンジャブからやってきた英印軍兵士の子孫たちだった。ミャンマーの民族衣装であるロンジーという腰巻を履いた老人は、彼の祖父は、現在のバングラデシュにあたる英領インド・ベンガル州出身だと話す。イギリスの植民地軍に入った祖父は、この町に転属になったまま、退役後も故郷に帰らなかった。地元の女性と結婚したからだ。三代目の彼は、インドにもバングラデシュにも行ったことがない。わしはミャンマー人だからな、と老人は言った。
 どういうわけか自転車の貸し出しもやっている骨董品店で自転車を借りて、近隣の村に行ってみた。気温は25度ぐらいで、心地いい。
 このまま中国国境に伸びる街道を北東に走った。この道は途中、ラショーという地方都市を通り、かつてここから先は「バーマ・ロード」として知られていた。日本で言う「援蒋ルート」である。日中戦争中、米英軍がこの道を使って、蒋介石率いる中国に物資を送っていた。これを遮断しようとして、大戦勃発後、日本軍はビルマに侵攻したのだ。
 街道を進むと、左手に真新しいリゾートホテルみたいな建物が何棟も見えた。やがて、4車線の黒々とアスファルト舗装された道が街道から枝分かれして、芝生と人工湖のみえる方角に伸びていった。分岐点に鄙びた周囲の風情と似つかわしくない立派な門があって、金ピカに光る英文字が「ミャンマー国軍技術学校」と読めた。
 どうせ勉強するなら涼しいところがいいもんな。首都でも日中5、6時間も停電する国のわりに、やけに立派な学校だな。そのときは、そんな風にしか思わなかった。
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ヤンゴンからマンダレーへ~日本語を勉強するわけの巻

»カテゴリ: ミャンマー

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ヤンゴンの人は男も女も腰巻を着る(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki

 ヤンゴンは暑い。4月下旬のいまは一年で最も暑い時季だという。40度はあるだろうか。それでも今朝までいたバングラデシュのダッカに比べると、格段と歩きやすい。道ははるかに清潔だし、車の運転は穏やかだ。右折レーンが機能している国に来たのは、いつ以来だろう。それに、通行人に見つめられない、むやみに話しかけられない。バングラで過ごした1か月、首都だろうが離島だろうが、部屋から一歩出れば人に取り囲まれ、部屋にいてもノックもなしに従業員が入ってきた。天と地ほども違うとはこのことだろう。
 宿から1キロほど歩いて、アウンサン市場に行った。日本語で声がかかった。今までの癖で、即座にあしらおうとするが、強く出られない。相手が穏やかすぎるのだ。口調は丁寧だし、声色も表情も穏やかで、どうしてもきつく追い払えない。結局、23歳のマウンマウン君と茶屋でジュースを飲むことになった。落ち着いて話してみると、勉強して身につけた日本語だとわかった。夜学に通っているという。この街に6泊して、日本語を流暢に話す人とよく会った。マウンマウン君の叔母さんは8年間、東京に住んでいたとかで、上品な日本語を話したし、バス会社を2社訪ねると、両方とも日本語で応対された。それほど日本人の往来が多いとも思えないのに、どういうわけだろう。
 数日後、460キロ北上したミャンマー第二の都市、マンダレーで在住日本人と出会った。日本語教師としてマンダレーにやって来て、日本食レストランを経営する池田さん。日本語を習う動機は、職を得るといった実際的なものより、「おけいこ感覚が多い」という。
「この国は経済があまりよくないからね、会社に勤めても給料はあんまりよくないんですよ。マンダレーには日系企業も来ていないですし。だから、学校を出てからコンピューターとか日本語とかを習ったりして、その後は、家の商売をやったりするわけ」
 経済統計上は世界最貧国のミャンマーだが、マンダレーなどの都市部の生活実感は、ゆとりがあり、切羽詰った貧困のイメージとは遠い、と池田さんは言う。公定レートと市中レートに130倍も差があるのも、闇経済の大きさを物語っているのかもしれない。
「マンダレーの子はさ、うちの店で働いてもらおうとしても、来てくれませんよ。雇っているのは、みんな村の人。この国、実はけっこう豊かだと思いますよ」

ヤンゴン~摩訶不思議な両替事情の巻

»カテゴリ: ミャンマー

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上座部仏教の国に来た(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


「ヤンゴン国際空港に、インシャッラー20分ほどで到着いたします」とスチュワーデスのアナウンスが聞こえた。インシャッラーは、イスラム教国でよく耳にする言葉で、神のご加護があれば、といった意味らしい。神のご加護があれば20分で着くが、ご加護が足りなかったりすると、もう少しかかるかもしれない。そんなニュアンスだろうか。僕らを乗せたビーマン・バングラデシュ航空機は、ミャンマーの首都ヤンゴンに向け下降中である。
 入国審査官は若い女性たちで、手分けしてパスポートを捌いている。すぐ奥に両替所があって、目鼻立ち整った女の子がブースにいるのが見えた。目が合うと、にこやかに微笑えむ。とっさのことにうろたえた。かれこれ3、4か月、宗教戒律が厳しい国にいて、女性の微笑みに慣れていないのだ。ここは上座部仏教の国である。
 空港から市内の風景にまた驚かされた。芝生の中央分離帯のある広い車道の両側には、手入れされた木立が茂り、白亜の洋館が続く。なだらかなカーブをたどる車窓からは、湖が見え、黄金色の仏塔が流れ去り、シンガポールかどこかにいる錯覚に陥る。アジア最悪級のゴミ溜め都市ダッカから1時間半移動しただけで、予想外に美しい都市に来た。
 冷房の効いた趣味のいい部屋が7ドルで取れた。日本人経営の安宿である。実はまだ両替していない。ふつうなら国境で両替するが、ヤンゴンの空港は極端に両替率が悪かった。1ドル=450チャットと、事前に調べたレートの半分ぐらいなのだ。空港で両替をせずに、米ドルでタクシーに乗って来た。宿で会った日本人の旅人に最新の両替事情を聞く。
 市場で両替すると、1ドル=815チャット。空港も市場も闇レートで、政府が定める公定レートはなんと、1ドル=6.2チャットだという。市場レートの130分の1である。ただ、実際には、市場レートだけを頭に入れればいいので、難しく考えることはない。旅人にとって、公定レートは無視してよいが、例外がひとつだけある。日本大使館である。日本政府は律儀に公定レートを採用しているので、この国でパスポートを再発行したり、増補したりすると破格に安いという。後日、残ページが少なくなったパスポートの増補を願い出ると、わずか130チャット。公定レートでは20ドル、市場レートだと0.16ドル、つまり20円ぐらいである。この旅で最も得をした買い物だろう。

セントマーチンズ島~暴風雨の海、人体の神秘の巻

»カテゴリ: バングラデシュ

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ロブスターと97歳の宿主(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 3時間後、暴風雨の島が目前となった。セントマーチンズ島の浜まであと200メートルか。船は錨を下ろした。桟橋には着かない。乗客は軽々と海に飛び込んでいく。飛ぶしかないぞ、悲壮な顔をする和華子に怒鳴った。震える体を起こし、海に落下。他の乗客にバックパックを投げてもらい、遠浅の海を浜まで進む。和華子を拾いに浜と船を往復し、気を静めてから、20キロ近くある荷物を背負う。体は軽く、風は生ぬるく、感覚が遠い。とにかく雨風から、海から、少しでも遠ざかろうと、椰子茂る方に歩き出した。
 そのとき、不思議なことが起きた。半裸の子供の一群に囲まれていた。歓声に包まれていた。足を止めずに、眼鏡を外し、見渡す。パクパク開く子供たちの口と無関係に、歓声がこだまして聞こえる。現実に起きていることなのか。確信が持てない自分がいた。その後はよく覚えていない。宿を見つけ、荷物を下ろして、体を拭き、そのままベッドに倒れこんだ。
 あらためて冷静に思い返してみて、あれは人生で初めて経験する「火事場のバカ力」だったと思う。疲れ、寒さ、荷物の重さが消え失せていた。五感に膜がかかったように、感覚が円やかになった。ただただ一刻も早く抜け出そうと、体が勝手に動いていた。人体の神秘さを感じる。
 ベンガル湾上に浮かぶセントマーチンズ島は、東西1キロ弱、南北はやや長い小島。白浜に囲まれた島の大部分は椰子に覆われている。バングラ最東端の僻地である。電気は通らず、水道もない。今まで割りと不便なところは何か所かあったが、ここは桁違いだ。滞在した6日間に会ったのは、島民以外は、何組かの都会から来た観光客がいるだけだった。
 島の暮らしは面白かった。宿の主人は97歳だという。1955年に教師として派遣されて以来、島に住み着いて半世紀たった。高齢にも関わらず記憶は確かで、島のことはなんでも知っている。「ヒンズー教徒が5世帯いるだけ」だそうで、他はみなイスラム教徒。ふんだんに取れるロブスターやカニは、教義に反するので、食べない。最近まで捨てていたそうである。異教徒にとっては、ロブスターが1匹100円で食べられるのは、天国のようだ。大いに食い、泳ぎ、遊んで、後は本土行きの恐怖の船旅を待つだけである。

テクナフ~越えられない国境の巻

»カテゴリ: バングラデシュ

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テクナフとセントマーチンズ島を結ぶ木造船(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ポルトガルから陸路でユーラシアを東進して9か月。バングラデシュは23か国目だから、だいぶ国境を越えたことになる。なかには越えられない国境もあった。北キプロスの首都ニコシアでは、金網越しに南キプロスの同名の首都を見ながら、越境を拒否された。トルコ東部のアチャッカレでは、ビザがなくて地雷原の向こうのシリアを見るだけだった。パキスタン・アフガン国境にも行ったが、度胸がなく、戦乱の国へは行かなかった。いま、再び越えられない国境に来た。バングラ本土最東端の町テクナフ。ナフ河対岸の手が届くようなところに、ミャンマーがある。
 念のため、桟橋で聞いて回るが、外国人は乗船不可だと誰もが言う。できればこのまま陸路、海路で行きたかった。旅人の間では、「ミャンマーのビザを取得して、国境まで行けば通過できる」とか「バングラのチッタゴンから船便がある」とか噂が飛び交っていた。コルカタのミャンマー領事館で、陸路入国について相談してもみた。ヤブヘビだったようだ。ビザを受領しに行くと、パスポートに「陸路は許可せず」の文言をスタンプされてしまったからだ。バングラに入ってからも、ミャンマー大使館に許可を求めたり、チッタゴンの船便情報を調べたりしたが、全てが徒労に終わった。ダッカに戻り、空路でミャンマー入りするよりほかないようだ。
 テクナフは、騒がしい街道際に泥まみれの路地が走り、泥川が流れる、みすぼらしい町だった。ミャンマー産の煙草や菓子、中国製の安物雑貨を売る露店が密集する一角があり、時おり、ミャンマー人らしき人とすれ違う。ただ、それ以外は、バングラの片田舎である。
 翌朝、屋根もないちっぽけな木造船に乗りこむ。ミャンマーに行けない代わりに、沖合の小島に行こうと思う。50人ばかりの乗客は欄干に追いやられた。セメント、氷塊、食糧、それに2頭のヤギと籠に入った鳩が船体を占拠したからだ。ミャンマーを横目で見ながら、ナフ河を進み、大洋に出るや小雨になった。やがて飛沫が襲い、本降りになった雨に打たれる。顎が言うことを利かずに震えだす。灼熱の国にいて、凍死しそうだ。波の合間に似たような木造船が見え隠れする。旗を振る乗員。救助を求めているのか。頼むから、助けになんて行かないでくれ。胃液を飲み込みながら、本気でそう祈った。

コックスバザール~2000年続いた仏教徒の巻

»カテゴリ: バングラデシュ

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仏教徒の子供たち。バロアとともにラカイン人がいる(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 コックスバザールの海岸は世界一長い。少なくてもバングラデシュの人はそう信じているようで、誰もがそう言う。確かに見事な海岸だった。一直線の浜がどこまでも続き、ベンガル湾の波が押し寄せる。サーフィンにちょうどよさそうだが、サーファーどころか水着姿もほとんどいない。都会風の女性はサリーのまま水に入る。波と戯れるサリーは西日に透けて、ボディーラインが目の当たりになる。
 バングラデシュをベンガル湾沿いに東に向かった小都市。けたたましいダッカやチッタゴンとは別世界だ。ミャンマーに近いこの地には、仏教寺院がいくつかある。目抜き通りのほど近くに、椰子の木立に囲まれ、切妻屋根が幾条にも重なる静かな境内があった。寺にいた少年が案内を買って出る。聞けば、先祖代々仏教徒だといい、「バロア」という。ベンガル語で仏教徒を意味するそうだ。仏教の発祥地はインドだが、その後廃れ、いま亜大陸には仏教徒は非常に少ない。その仏教徒にしても、チベット難民やアッサムの民族、独立後に改宗したいわゆる新仏教については見聞きしたが、「バロア」は初耳である。
 町外れにある小さな寺でバロアの青年に会った。僕が仏教徒だと言うと、家に誘ってくれた。訪れた家は、その名もバロア家という。この地方の仏教徒はみなバロアの姓を持つと、英語がうまい小学校教師の妹、ルマが説明する。バロアはベンガル語を話し、2000年前から一貫して仏教徒であった。その間、他のベンガル人がヒンズー教、のちにイスラム教に改宗するなか、信仰を守ってきたという。聞けば聞くほど興味深い人々である。
 ある日、バロア家を訪ねると、22歳の弟、アシュトシが「お母さんが君たちが食べたいものを作ったよ」と歓待してくれた。食卓を彩るカレーの小皿。カニだ。イスラム教は鱗のない魚介類を食べないから、この国ではふだん口にできない。それに豚肉もある。和華子と僕は大喜びして食べあさった。
 バロアの集落の人々は、穏やかだ。この国の人はすぐに打ち解け、気軽に家に誘ってくれるが、イスラム教徒は、気高く、質問攻めにする傾向がある。バロアは、明らかに違う。落ち着いていて微笑を絶やさない。ここから50キロばかり東へ向かえば、仏教圏が始まる。文明の分水嶺がここにもあった。

ダッカ~出稼ぎ社長の苦言の巻

»カテゴリ: バングラデシュ

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リクシャとバスがひしめき合う(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 観光客が来ない国、バングラデシュの首都ダッカ。ひどい街だ。人口1200万人の巨大都市なのに、信号という信号は機能しない。車道には、ものすごい数の自転車リクシャと黒鉛を撒き散らすオンボロバスがぶつかり合う。公園、ビルの軒先、川辺といった空き地は、ことごとくスラム。街のいたるところに乗用車大のゴミ箱があって、あふれかえったゴミが臭気を発している。吐き気を抑えるのがやっとだ。
 朝食を取りに、宿の1階にある食堂に行くが、カレーしかないという。何軒か探すが、どこも同じだ。結局、朝からカレーを食べる。この辺りは、配管や便器を扱う問屋街みたいで、銀行だとかインターネットカフェといった便利なものはない。実に不便である。
 このゴミ溜めに1週間も滞在してしまった。まず、ミャンマー大使館に陸路入国の許可を陳情するが、「絶対不可」。航空券を買わないといけない(「旅行税」が5000円もかかる!)。さらに、「出国地点変更許可」。入国地点とは別の国境から出国するには許可がいるのだ。もちろんパスポートのコピーやら顔写真やらも必要で、受領は翌日。下らない官僚主義につき合うために、リクシャに揺られ、汗を垂らして、ダッカを東奔西走。
「出国地点変更許可」を申請した後、役所のそばで昼食を取った。1200万人の大都会でも、好奇心の強いバングラ気質は変わらず、たちまち人だかりになる。英語のうまい代書屋が、「我が家に来い」と、住所を教えてくれたので、訪ねたりした。
 別の日に騒がしい交差点で話しかけられた。流暢な日本語である。日本で出稼ぎしていたというデュラルさん。何度か彼が経営する下町の履物問屋を訪ねた。22歳のときに日本に行き、35になるまで、千葉、東京の下町、群馬で過ごした。日本にいるバングラ人の多くは同じ地方の出身だという。同じ問屋ビルにも大勢の出稼ぎ帰りの社長たちがいた。青春のほとんどを日本で不法就労者として過ごし、人一倍働き、金を貯めた。今では一国一城の主である。口に出るのは、「たまげたよ」「社長のセガレがさ」と味のある下町言葉。
「悪いことしなかったよ。真面目にさ、ずっと働いても、日本はビザくれないでしょ。30過ぎてさ、もうバングラに帰るしかないな、と思ったよ」
 日本を懐かしく話すデュラルさんが唯一こぼした苦言だった。

コルカタからクルナへ~珍獣、宇宙人状態の巻

»カテゴリ: バングラデシュ

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クルナの波止場で(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


「バングラデシュへ行こう、観光客が来る前に」
 デリーのバングラ大使館で見かけたポスターにこうあった。政府観光局のポスター。観光を振興する当局にしては、ずいぶんと大胆な開き直りだなと思った。
 そのバングラデシュにやって来た。コルカタから通勤電車に乗って2時間、17ルピー(約43円)。わけなく国境へ到着する。国境線をバングラ側にまたいだところに、肌色の制服を着た役人がいて、とっさに「サラーム・アレイコム」の挨拶が口に出た。トルコからパキスタンまで毎日幾度も使い、聞いたイスラムの挨拶。役人は目を丸くして、お前はイスラム教徒なのか、と聞いた。「いや、そうじゃない、日本人だ」「おお、日本人、ウェルカム、ウェルカム」。イランからパキスタンへ入った時を思い出した。愛想がいい。
 国境から自転車リクシャとバスを乗り継いで、ジョソールという町に向かう。気づくと誰かが目を開き、口をぽかんと開けて、僕らを熟視している。併走するリクシャの運転手、その乗客、道行く子供、食堂の店主。幻の珍獣か宇宙人でも見たかのようだ。首都ダッカと隣国の1000万都市を最短で結ぶ国境近辺なのに、あまりに驚かれることに驚く。
 ジョソールの町でも同じである。宿の従業員は、入れ替わり立ち代り部屋にやってきて、蚊避けスプレーを持ってきたり、部屋の具合を聞いたり。気づくと他の従業員が大真面目な顔で覗き込んでいる。英語はあまり通じない。町に出て、誰かに英語で話しかけられ、ふと気づくと、もう30人は集まっている。無言でただ僕らを熟視する。
 観光客が多い北インドでは、ついぞこんなことはなかった。列車で乗り合わせても誰も話しかけてこないし、町では客引きだらけだ。むしろ、回教圏のイランやパキスタンで似たようなことがあった。ただ、彼らは概して、もっと堂々としていた。「困っているなら、助けてやるぞ」といった感じである。ここの人たちは、何を言えばいいかもわからず、口をぽかんと開けて、僕らを取り囲む。
 ジョソールで1泊して、クルナの波止場に行った。ここから船でダッカへ行く。乗船まで暇をつぶしていると、子供に取り囲まれ、その子供を追い払いに大人が来て、その大人も取り囲み、ますます人が増える。この国では、面白いことになりそうな予感がする。

バラナシからコルカタへ~混沌の国の真っただ中での巻

»カテゴリ: インド

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ブッダガヤの少女(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 バラナシからガヤへ向かう。わずか5時間の旅だからと、予約をする手間を惜しんで、駅に着いた。大失敗である。構内は災害現場みたいだ。窓口に殺到する者の傍らには、手荷物を置いて、床に座り込み、パンを食べる家族。細長い棒を手にした警官が棒を振るい、叫ぶ。群衆も眉間の皺を深くして言い返す。ニューデリー駅でのように、声を張り上げる気力はなかった。体調がよくない。この国は、なんでいつもこうなんだ。
「ヘイ、ミスター、切符を買いたいのか」。声をかけられた。前歯が抜けたマヌケ顔、サーカスの小男、いびつな微笑。2分あればどんな切符でも手配できる、と流れる売り口上。もちろん2分経っても切符は取れない。小男は閉まっている窓口から売場に声をかけたり、構内を走り回る。10分経過、「お前にはなにかアテがあるのか」。
「心配すんなって。あと、2分経てば、おいらのグッドフレンドが昼食から戻ってくる。ミスターの切符をすぐ発行してくれるよ」
 全然信じられない。悪いけど列車に乗るまでは一銭も支払わないがそれでもいいか。もちろん、もちろん、そろそろフレンドのオフィスに行ってみるよ。
 切符は手に入った。コンピュータ印字で日付も経路も合っている。小男は僕らをホームまで誘導し、到着まで待ち、僕らのバックパックを軽々と担いで、2等車に席を確保した。手数料は30ルピー、75円である。あっけにとられて声も出ない。ハブ・ア・ナイス・トリップ、元気よく手を振る小男を後に、列車が動き出した。切符購入で、またもやチョンボをしてしまった。インド人はいつもどうやって切符を手にするのだろうか。
 ガヤから仏教史跡のブッダガヤに立ち寄り、体力が回復するのを待って、コルカタ行きの夜行に乗った。目覚めると、熱帯樹が茂るなか、黒ずんだ家々が連なる水気の多い土地を通過していた。やがて、線路は複々線になり、通勤電車が扉を開けたまま併走する。人口1000万都市コルカタまであと数十分である。
 トルコから続いた乾燥地帯が終わり、ここから湿潤地帯が始まる。3月も半ば過ぎ、気温は30度を超す。いままで着込んだ冬着をブッダガヤで始末して、フランス以来半年ぶりに半ズボンとサンダル姿になる。長い冬が終わり、夏が来た。

バラナシ~聖なる河の水の巻

»カテゴリ: インド

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ホーリーの朝のガンガー(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 結局、ホーリーの当日にバラナシでなにが起きたのか、知ることはなかった。前夜から昼過ぎまで、宿に軟禁されていたからだ。施錠された門の内側で、外国人ばかりの宿泊客同士で平穏に色水を浴びせ合い、漏れ聞こえる外の喧騒は伺い知れなかった。
 ホーリーの翌日に和華子が熱を出し、腹を下した。同じ宿の宿泊客も次々と倒れていく。バラナシでは誰もが病気になる、と聞いたとおりだ。ガンガー河の水で作った料理やチャイを口にするからだと旅人は言う。
 ヒンズー教の聖河、ガンガー。上流と下流を見渡して、いつも煙が上がっているところが火葬場である。小船からその河畔に降り立って、煙の方へと、人をかき分け、近づく。老婆が薪の上に寝ている。白のサリー姿。先端が燃えた藁を蒔にくべる。サリーが腰から着火し、老婆はひとつの炎になった。川風に乗った煙が目にしみる。上半身辺りの炎から煙が吹き出した。細長い煙が、老婆だった炎の上空に屹立しては、風に流されていった。人はこんな光景を見て、魂の存在を知るのだろうか。僕はそう思った。
 河畔で焼かれたヒンズー教徒の遺灰は、そのままガンガーに流される。蒔代が足りないと、生焼けのまま流されるとはよく聞く話だ。それでも、ヒンズー教徒は、ガンガーに浸かる。ガンガーで取れた魚も食す。対岸には、チャイを売る露店がぽつりとあり、水道を引いているようには見えないから、やはりガンガー水で作るのだろう。聖なる河なのだ。
 しかし、先進世界育ちのやわな胃壁には、この水は相性が悪いとみえて、みな病気になる。どんなにインドの精神世界を絶賛している者も体は正直だ。毎朝、1階の食堂で顔を会わせては、誰それが一晩中嘔吐していただの、下痢していただの。3、4日経つと、僕も傍観者から患者に成り下がった。卵の味のするゲップが止まらない。胃の中で硫黄でも発生しているのだろうか。
 ここでトルコから幾度も出くわして来た旅人たちとお別れである。イェルカは南インドへ、インシックとクックワはネパールへ、ベルギーから自転車で走って来たクリストフとアマンディもネパールへ向かう。僕らは東に抜ける。このまま北インドの乾燥した大地を通り抜け、バングラデシュへ行くのだ。
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