Tanimichi World Blog

世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

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ベルリン~真っ白な地図の巻

»カテゴリ: ドイツ

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東ドイツの国民車トラバント(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 1989年は僕にとって印象深い年だ。年明けとともに昭和が終わり、6月に天安門事件があり、11月にはベルリンの壁が崩れて、冷戦が終わった。個人的には、高校を卒業して大学に入った年でもある。89年を境に世界も自分も様変わりしたと思うことがある。
 ベルリンに来た。壁を見ると何かがわかるかもしれない、そんな気がした。かつての西ベルリンに宿を取った。観光案内所で興味深い地図を見つけた。壁が敷かれていた道筋が詳しく書いてある。最初の数日間は西ベルリンだけを歩こうと決めた。そうすれば後から東ベルリンを訪れたときに東西の差がよりよく分かるかと考えたからだ。
 ところが実際にやってみると、なかなか難しい。うっかり越境してしまうのだ。敷石で示された壁跡を追うが、区境に沿って敷かれていたベルリンの壁は、勝手気ままにビルの角を回り込み、歩道を横切る。大きな交差点を渡ったところで壁跡を見失ってしまった。
 数日後、チェックポイントチャーリーから東ベルリンに入った。冷戦時代に西ベルリンを訪れた観光客が一日越境パスをもらって壁を越えた検問所だ。東ベルリン一の目抜き通りで曲がって、ひょろりと伸びるテレビ塔に向かって歩く。やがて僕らはアレキサンダープラッツ駅に着いた。高架橋をくぐって駅前広場に出ると、視界が開けた。滑走路のように幅広い駅前通りは、道の中央部が駐車場になっている。カール・マルクス大通りという。
 この近辺に宿を移すつもりだ。安宿のチラシを頼りにかけた電話に出たのは英語がほとんどできない女性。なんとか住所を聞き出き、探し当てたのは高層アパートの一室だった。玄関口に立った白髪の太った女性にチラシを見せたら、チラシをしまえというようなことを言い、「シークレット、シークレット」とささやく。近所の人に隠れて営業しているようだ。部屋がきれいで値段も手ごろなので翌日チェックインすることにした。
 こうして東ベルリンに部屋を確保して、散策すると、まるで別の街に来た気分になる。高層アパートと人気のない大通りばかりの街。閑散とした大ターミナルや地下道。西には走っていない市電。日曜日に駅前を通ると蚤の市をやっていた。東独時代の軍装品や身分証明書の類が乱雑に陳列されているなかに、東ベルリンの地図を見つけた。壁の西側が真っ白になっていて、あたかも無人地帯のように見えるのが面白くて、土産に買った。
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マグデブルク~社会主義の街の巻

»カテゴリ: ドイツ

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マグデブルクの街(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 社会主義ってなに? 小学生のころ、先生だったか親だったかに聞いた覚えがある。二段ベッドが並んだ部屋に住まわされて、朝から晩まで働かされる、といった答えだったと記憶している。後から考えると、ひどい説明だ。ただ、1980年前後の北米カナダに住んでいた大人にとって、社会主義のイメージとはそんなものだったのかもしれない。悪の帝国、冷戦、第三次世界大戦。そんな言葉を耳にしては、灰色の作業着を着たまま二段ベッドに横たわった自分を想像したりした。
 ヨーロッパから社会主義が一掃されて14年。降り立った街はマグデブルクである。特に見たいものがあったわけではない。ただヨーロッパ全図でみつけた、東西ドイツの境界線に比較的近い東側の都市がマグデブルクだった。
 到着した翌朝、郊外の安モーテルからバスと市電を乗り継いで40分。町中らしいところで降りる。のっぺりとした壁にはパステルカラーが塗られ、窓のサッシが純白に映える。小雨がちらつく大通りは、人気がなくて、華やかなパステルカラーがしっくりこない。どことなく、子どものころ歩いた高度成長まっさかりの郊外都市に似ている。ベッドタウンの駅前通りから伸びた完成して間もない団地街。
 もちろんマグデブルクの街が真新しいわけではない。東西統一後に急ごしらえで町中のビルを改装して回ったに違いない。本屋を覗くと、統一前のマグデブルクを写した写真集が売られていた。駅前から中心部に伸びる滑走路のように閑散として幅広い大通りは、カール・マルクス大通りといったらしい。いまは西ドイツの政治家の名前がついている。かつてのカール・マルクス大通り沿いには、マクドナルドや3階建てのショッピングセンターがあって、そこだけは賑わっていた。
 この街は物価が安い。カフェでコーヒーを飲むと200円しないし、ショッピングセンターで食べた肉料理は500円ぐらい。西ドイツより何割かは安いのは確かだ。旧東ドイツの失業率が20%を超すというから、物価に住民の購買力が反映されるのだろう。
 歴史博物館に行った。ローマ時代から始まって、街の変遷を見て追う。戦災で壊滅した白黒写真が何枚か続いた後に、東ドイツ時代の展示はわずかに青年同盟の旗だけであった。

ヒューテンスレーベン~監視塔のある風景の巻

»カテゴリ: ドイツ

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監視塔の窓から(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 助手席からは、まっすぐ伸びる二車線が重苦しい空に吸い込まれるように見える。左手は炭鉱なのだろう、黒く、掘り下げられた地面が続いている。ドイツのほぼ中央部に位置する田舎町シューニンゲンからタクシーで東へ向かう。3キロ走って、最初に見えた集落の手前で車が止まった。原っぱの真ん中で僕らを下ろすと、タクシーはUターンして、シューニンゲンに帰っていった。雨がぱらついてきた。
 ちょうど道路と直角にコンクリートの壁が伸びている。壁と集落の間のなだらかな斜面は、刈り込まれた草地になっている。その先には塔が見えた。空港の管制塔を小さくしたような塔だ。次第に強くなり始めた雨のなか、草地を塔に向かって歩いた。
 ここは1989年までの約半世紀間、東西ドイツの国境だった。横断を試みたものは容赦なく射殺された場所なのである。1989年秋にベルリンの壁が開放され、引き続いて東西ドイツの間を数百キロに渡り分断したこの壁も崩された。14年後のいま、東西ドイツの国境跡はここヒューテンスレーベンともう一ヶ所しか残っていないという。
 塔にたどり着いた。作業着を着た中年の男が間口に座っている。「登ってみるか?」と誘ってくれているようだ。直角に近い鉄のはしごをよじ登った2階は、粗末な二段ベッドがあった。オリーブ色の毛布がたたんである。この塔で監視任務についていた東ドイツ兵の宿直室なのだろう。3階に上がると、草地と壁、そして東側の村、ヒューテンスレーベンが眼下に広がった。
 無人地帯。またはデス・ストリップ――死の回廊と呼ばれた場所である。右手にはだかる壁の向こうは、ほんの十数年前まで西ドイツと呼ばれた国があり、左手は東ドイツだった。
 作業着の男は、この塔の修繕をしていて、1945年からヒューテンスレーベンに住んでいるという。ドイツ語のわからない僕にはこれぐらいのことしかわからない。
 ヒューテンスレーベンの村に寄ってみた。平日なのにレストランは閉まり、タクシーを呼ぶにも公衆電話もない。何人かの住民に話しかけたが、誰も電話を貸してくれないし、「西側」に帰るバスもないようだ。静まり返った雨の町でたたずむ。ふと、あの男は、元監視兵だったのではないかと思いついた。
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