Tanimichi World Blog

世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

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ドイツ

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GERMANY, Sept/Oct 2003
* Düsseldorf
* Köln
* Aachen
* Brunsweik
* Hötensleben#
* Magdeburg
* Berlin (1)
* Berlin (2)
* Dresden
* Görliz
* Zgorzelec (Poland)
# 写真撮影地。Photograph by Wakako Takatsuki

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Map courtesy of the U.S. Central Intelligence Agency.

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ゲルリッツ~対岸の煤けた町の巻

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ゲルリッツから見た対岸(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ナイセ川は、ドイツらしく整然としたゲルリッツの旧市街の外れにあった。川幅は50メートルもないだろう。対岸に石造りの家々が見える。窓越しに住人の姿が見えるくらい間近にせまる対岸は、ズゴルゼリックというポーランドの町である。第二次大戦後、ドイツは国土の東部を失い、オーデル川とナイセ川が新たな東部国境になった。ナイセ川に面する国境町ゲルリッツは、人口6万、ドイツ南東端に位置する。
 旧市街から数百メートル離れたところに国境橋があった。歩行者用入口から橋に近づくと、粗末なコンテナ小屋があって、ここでドイツ出国となる。真横のコンテナにはポーランドの係員がいて、「コニチワ」とひょうきんに声をかけてきた。僕らはパスポートを見せ、スタンプを押してもらうが、他の徒歩越境者は身分証明書のようなカードを見せるだけだ。緊張感のかけらもない国境風景。半年後にせまったポーランドのEU加盟後は、国境自体が消滅する予定である。
 夕暮れがすぎた時間帯、対岸のズゴルゼリックは暗闇の町だった。人気のないゲルリッツとは対照的に、若者が連れ立って、舗装の悪い坂道を行き来する。炭の臭いにも似た、煤けた臭いがする。石炭で暖房をまかなっているのかもしれない。ゲルリッツと建物の造りはさほど変わらない。にもかかわらず、別世界に来た気分になる。
 バー・カリフォルニアと看板があって、恐る恐る地階のドアを開いた。バーカウンターには客はいなくて、テーブル席はあらかた埋まっている。案外まともなレストランみたいだ。渡されたメニューは、ドイツ語とポーランド語。さっぱり分からないので、適当に指差して注文したら、ラザニアのような料理が出てきた。味は悪くないが、どこがカリフォルニアなのだろう。
 帰りに雑貨屋でミネラルウォーター、インスタントスープと煙草を買う。対岸ドイツの4分の1以下である。ゲルリッツに商店があまり見当たらないのも無理はない。こんなに物価に差があっては、勝負にならないに違いない。
 また国境橋を渡り、楓の落ち葉が舞う、静まり返った町を歩いて20分、宿に戻り、ポーランド煙草に火をつけた。

ベルリン~それぞれの祖国統一の巻

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韓国人の落書き(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 いまベルリンには壁はほとんど残っていない。わずかに都心の旧ナチス党本部前、住宅地のごく普通の街路片側に壁が築かれたベルナウアー通りともう一ヶ所、シュプリー川に面した壁ぐらいだ。いまこの壁は、一種の屋外美術館になっている。壁に描かれたスプレー画が2キロにわたり続いている。平和を象徴する鳩、東ドイツから逃走する兵士、抽象画が脈絡なく続く。
 管理人もいない屋外展示とあって、スプレー画の上には油性ペンの落書きが目立つ。ふとハングルの落書きが多いことに気づいた。韓国人観光客はマナーが悪いな、と思いつつ進むと、ハングルの数行の中に「One Korea」の英文字が目についた。そうか、韓国も分断国家か。韓国人にとっては、この屋外美術館は単なる名所見物とは違うのだとやっと気づいた。ここで改めて自国の状況を振り返り、統一を訴えたくなるのだろう。
 そのまま進むと、今度は中国語の落書きが目立つ一角があった。中国人らしい達筆は、どれも「統一」とあった。彼らからすると、台湾の現状は祖国分断になるわけで、なるほどそれで統一祈願なのか。なんとなくピンと来ないが、中国人から見れば、そうなるのか。
 長居したベルリンを後にして、旧東ドイツ南部の主要都市ドレスデンへ南下。ユースホステルのドミトリーに泊まる。暖房が効いた5人部屋でドイツ南西部のシュツッガルトから来たドイツ人と同室になった。ドレスデンに来たのは初めてだという彼らは、「税金の使われ方を調査にしに来た」とにやけた顔で言う。もちろん税務署員ではなくて、旧東ドイツ再建のために、多額の税金が投じられたことの皮肉らしい。
「それで、君らの税金は有効活用されていると言えそうかい」
「いや、もっと増税しないとヤバいね。この街の道はガタガタだからね」
 二人組の片方は、ハノーバーで育った少年時代、旧東ドイツから女の子が転校してきたのを覚えていた。
「パン屋で売っているパンの種類が多いと驚いていたよ。
 彼らの口ぶりにどこか棘を感じて、北朝鮮から亡命してきた少女は、ソウルの街で真っ先に何を買うのかとふと夢想した。

ベルリン~真っ白な地図の巻

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東ドイツの国民車トラバント(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 1989年は僕にとって印象深い年だ。年明けとともに昭和が終わり、6月に天安門事件があり、11月にはベルリンの壁が崩れて、冷戦が終わった。個人的には、高校を卒業して大学に入った年でもある。89年を境に世界も自分も様変わりしたと思うことがある。
 ベルリンに来た。壁を見ると何かがわかるかもしれない、そんな気がした。かつての西ベルリンに宿を取った。観光案内所で興味深い地図を見つけた。壁が敷かれていた道筋が詳しく書いてある。最初の数日間は西ベルリンだけを歩こうと決めた。そうすれば後から東ベルリンを訪れたときに東西の差がよりよく分かるかと考えたからだ。
 ところが実際にやってみると、なかなか難しい。うっかり越境してしまうのだ。敷石で示された壁跡を追うが、区境に沿って敷かれていたベルリンの壁は、勝手気ままにビルの角を回り込み、歩道を横切る。大きな交差点を渡ったところで壁跡を見失ってしまった。
 数日後、チェックポイントチャーリーから東ベルリンに入った。冷戦時代に西ベルリンを訪れた観光客が一日越境パスをもらって壁を越えた検問所だ。東ベルリン一の目抜き通りで曲がって、ひょろりと伸びるテレビ塔に向かって歩く。やがて僕らはアレキサンダープラッツ駅に着いた。高架橋をくぐって駅前広場に出ると、視界が開けた。滑走路のように幅広い駅前通りは、道の中央部が駐車場になっている。カール・マルクス大通りという。
 この近辺に宿を移すつもりだ。安宿のチラシを頼りにかけた電話に出たのは英語がほとんどできない女性。なんとか住所を聞き出き、探し当てたのは高層アパートの一室だった。玄関口に立った白髪の太った女性にチラシを見せたら、チラシをしまえというようなことを言い、「シークレット、シークレット」とささやく。近所の人に隠れて営業しているようだ。部屋がきれいで値段も手ごろなので翌日チェックインすることにした。
 こうして東ベルリンに部屋を確保して、散策すると、まるで別の街に来た気分になる。高層アパートと人気のない大通りばかりの街。閑散とした大ターミナルや地下道。西には走っていない市電。日曜日に駅前を通ると蚤の市をやっていた。東独時代の軍装品や身分証明書の類が乱雑に陳列されているなかに、東ベルリンの地図を見つけた。壁の西側が真っ白になっていて、あたかも無人地帯のように見えるのが面白くて、土産に買った。

マグデブルク~社会主義の街の巻

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マグデブルクの街(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 社会主義ってなに? 小学生のころ、先生だったか親だったかに聞いた覚えがある。二段ベッドが並んだ部屋に住まわされて、朝から晩まで働かされる、といった答えだったと記憶している。後から考えると、ひどい説明だ。ただ、1980年前後の北米カナダに住んでいた大人にとって、社会主義のイメージとはそんなものだったのかもしれない。悪の帝国、冷戦、第三次世界大戦。そんな言葉を耳にしては、灰色の作業着を着たまま二段ベッドに横たわった自分を想像したりした。
 ヨーロッパから社会主義が一掃されて14年。降り立った街はマグデブルクである。特に見たいものがあったわけではない。ただヨーロッパ全図でみつけた、東西ドイツの境界線に比較的近い東側の都市がマグデブルクだった。
 到着した翌朝、郊外の安モーテルからバスと市電を乗り継いで40分。町中らしいところで降りる。のっぺりとした壁にはパステルカラーが塗られ、窓のサッシが純白に映える。小雨がちらつく大通りは、人気がなくて、華やかなパステルカラーがしっくりこない。どことなく、子どものころ歩いた高度成長まっさかりの郊外都市に似ている。ベッドタウンの駅前通りから伸びた完成して間もない団地街。
 もちろんマグデブルクの街が真新しいわけではない。東西統一後に急ごしらえで町中のビルを改装して回ったに違いない。本屋を覗くと、統一前のマグデブルクを写した写真集が売られていた。駅前から中心部に伸びる滑走路のように閑散として幅広い大通りは、カール・マルクス大通りといったらしい。いまは西ドイツの政治家の名前がついている。かつてのカール・マルクス大通り沿いには、マクドナルドや3階建てのショッピングセンターがあって、そこだけは賑わっていた。
 この街は物価が安い。カフェでコーヒーを飲むと200円しないし、ショッピングセンターで食べた肉料理は500円ぐらい。西ドイツより何割かは安いのは確かだ。旧東ドイツの失業率が20%を超すというから、物価に住民の購買力が反映されるのだろう。
 歴史博物館に行った。ローマ時代から始まって、街の変遷を見て追う。戦災で壊滅した白黒写真が何枚か続いた後に、東ドイツ時代の展示はわずかに青年同盟の旗だけであった。

ヒューテンスレーベン~監視塔のある風景の巻

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監視塔の窓から(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 助手席からは、まっすぐ伸びる二車線が重苦しい空に吸い込まれるように見える。左手は炭鉱なのだろう、黒く、掘り下げられた地面が続いている。ドイツのほぼ中央部に位置する田舎町シューニンゲンからタクシーで東へ向かう。3キロ走って、最初に見えた集落の手前で車が止まった。原っぱの真ん中で僕らを下ろすと、タクシーはUターンして、シューニンゲンに帰っていった。雨がぱらついてきた。
 ちょうど道路と直角にコンクリートの壁が伸びている。壁と集落の間のなだらかな斜面は、刈り込まれた草地になっている。その先には塔が見えた。空港の管制塔を小さくしたような塔だ。次第に強くなり始めた雨のなか、草地を塔に向かって歩いた。
 ここは1989年までの約半世紀間、東西ドイツの国境だった。横断を試みたものは容赦なく射殺された場所なのである。1989年秋にベルリンの壁が開放され、引き続いて東西ドイツの間を数百キロに渡り分断したこの壁も崩された。14年後のいま、東西ドイツの国境跡はここヒューテンスレーベンともう一ヶ所しか残っていないという。
 塔にたどり着いた。作業着を着た中年の男が間口に座っている。「登ってみるか?」と誘ってくれているようだ。直角に近い鉄のはしごをよじ登った2階は、粗末な二段ベッドがあった。オリーブ色の毛布がたたんである。この塔で監視任務についていた東ドイツ兵の宿直室なのだろう。3階に上がると、草地と壁、そして東側の村、ヒューテンスレーベンが眼下に広がった。
 無人地帯。またはデス・ストリップ――死の回廊と呼ばれた場所である。右手にはだかる壁の向こうは、ほんの十数年前まで西ドイツと呼ばれた国があり、左手は東ドイツだった。
 作業着の男は、この塔の修繕をしていて、1945年からヒューテンスレーベンに住んでいるという。ドイツ語のわからない僕にはこれぐらいのことしかわからない。
 ヒューテンスレーベンの村に寄ってみた。平日なのにレストランは閉まり、タクシーを呼ぶにも公衆電話もない。何人かの住民に話しかけたが、誰も電話を貸してくれないし、「西側」に帰るバスもないようだ。静まり返った雨の町でたたずむ。ふと、あの男は、元監視兵だったのではないかと思いついた。

アーヘン~隣国で買い物の巻

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賑わう街道沿いから裏にまわると、旧道沿いの国境があった。手前はオランダの家々、奥の黄色の家はドイツ。右のレンガ小屋が昔の検問所だ(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ドイツに入った。デュッセルドルフ、ケルンを経て、アーヘンに向かう。地図で見る限り、ここはドイツ、オランダ、ベルギー三国の国境線が交わる地点。河川で区切られているわけではなく、陸路国境。国境マニアとしては逃すわけにはいかない。
 アーヘンは、古い町並みが残る緑豊かな街だった。デュッセルドルフとケルンとはだいぶ印象が違う。おそらく空襲の結果なのだろう、風情のない、戦後風の建物が目についた両都市とは異なり、落ち葉が舞うアーヘンは実に美しい。ただ、妙に人通りが少なく、店が軒並み閉まっている。今日は金曜日なのに、なんで営業していないんだ、食堂ぐらい空けておけよ、と腹を空かせながら歩く。
 大聖堂のそばから市バスに乗った。4キロほど乗って、オランダ国境近くの大学病院で降り、国境に向かう道に出る。家がまばらにしかないアーヘンの町外れの一本道。片側の車線だけが大渋滞している。渋滞の先は国境のはずだが、どうなっているのだろう。
 国境は信号がない交差点だった。交差点の先に、オランダ側の町名を示す標識があって、商店街が奥に見える。オランダ側の町はファールスという。国境をまたいで、オランダ側の最初の店に入る。二階建てのスーパーマーケットは買い物客で大賑わいだ。レジに並ぶカートには食料品や生活雑貨が積まれ、煙草売場の客はカートン単位で煙草を買い込んでいる。平日の午後の割にはかなりの客入りである。
 ファールスの観光案内所でようやく混雑の理由を知った。今日、10月3日金曜日はドイツの祝日、それも東西ドイツ統一記念日だったのだ。ただ、民族の悲願が達成されてから13年後の市民にとっては、「オランダで買い物でもするか」となるみたいだ。
「食料品はこっちの方が安いんで、ドイツから買いに来るんですよ」と観光案内所の係員。「ドイツの方が安いのは電化製品。みんなドイツに買いに行くから、こっちには電器屋はありません。ま、車に10分乗って、アーヘンで買えるから全然問題ないですね」
 この国境から数キロ山を登っていくと、ドイツ、オランダ、ベルギーの国境線が一点に集まる地点があるという。歩いて行こうとしたが、雨が降り始めたので、断念した。年間100万人以上が訪れるという。
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