Tanimichi World Blog

世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

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中国

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CHINA, Aug-Oct 2004
* Dongxing 東興(1)
* Dongxing 東興(2)
* Beihai 北海
* Yangjiang 陽江
* Lawma 那馬
* Zhuhai 珠海
* Shenzhen 深セン
* Changsha 長沙
* Shaoshan 韶山
* Yueyang 岳陽#
* Changsha to Yueyang 長沙から岳陽へ
* Wuhan 武漢
* Zhengzhou 鄭州
* Wuhan to Zhengzhou 武漢から鄭州へ
* Kaifeng 開封
* Zhengzhou to Kaifeng 鄭州から開封へ
* Beijing 北京
* Zhangjiakou 張家口
* Changchun 長春
* Haerbin ハルピン
* Suifenhe 綏芬河
* Hunchun 琿春
* Yanji 延吉
* Dalian 大連
# 写真撮影地。Photograph by Wakako Takatsuki

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Map courtesy of the U.S. Central Intelligence Agency.

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鄭州から開封へ~人口9700万大雑踏の巻

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開封のモスクで(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 鄭州の駅前広場は、荷物を地面に置いて、座り込む人たちだらけだった。彫りの深い顔立ちの男たちはウイグル族だろうか。中国鉄道屈指の大ジャンクション。北京と広東を南北に結ぶ幹線と上海とウイグルを東西に結ぶ幹線が交差するところである。
 ここ河南省は南北に長い中国のだいたい中間にある。面積は日本の半分弱なのに人口は9683万人で中国一。中国という大雑踏のスクランブル交差点みたいなところなのである。
 切符売場には長い行列ができていた。必要事項を書いた紙を窓口に手渡す。返事は「没有」。メイヨーが「ねえよ」に聞こえる。何度か並び直した末に、18番窓口へ行けと一喝された。温声服務窓口、切符の販売は不可、などと書いてある。ここの女は怒鳴らない。我是外国人、とたどたどしく言ったら、予約をしてくれた。なるほど温声服務か。普通の窓口は態度が悪いので、わざわざ“穏やか対応窓口”を用意している。中国らしい。
 北京行きの切符を確保してから、1時間半ほど東の開封という町へ向かう。北宋の都だった古都である。土色のレンガを積み重ねた粗末な家が密集する路地が這う。湿っぽい風に埃が舞い上がり、糞尿の匂いが漂ってくる。路地の先々には公衆便所。民家には個別の便所がないようだ。ここでは白い帽子をかぶった老人が目につく。回族と呼ばれるイスラム教徒だ。ペルシャとかアラビアの方から移り住んできた人たちの子孫だという。
 回族区を歩き回るうちにモスクを見つけた。思えばこの旅で足かけ5か月間イスラム教徒が多い国で過ごした。そこで出会った人々は、実に人情深く、何度も助けられてきた。中国のイスラム教徒に会ってみたいと思い、モスクの門をくぐった。
 サラーム・アレイコム。不審そうに僕らを見つめていた境内の人たちに声をかける。破顔一笑。矢継ぎ早に質問攻めにしてくる。イスラム教徒はどこに行ってもみなこれだ。中国語を日常語にする回族とは、当然筆談ができる。アラビア語を教える先生と生徒たちだった。はるばる中近東から中国にたどり着き千年。顔立ちも言葉もまわりの漢族と見分けがつかなくなっても、宗教風習を守り抜いている。誇り高い人々である。
 だいぶ経ってから、河南省で回族と警察が衝突したことを知った。開封のモスクで会った人たちはどんな感想を聞かせてくれるのだろう。

武昌から鄭州へ~列車は華中への巻

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筆談をしているとたちまち人だかりが(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 武昌を出発した特快124列車は、長江をまたぐ長い鉄橋を渡ると、平らな大地を快調に飛ばし始めた。中国の列車は速い。僕らが乗った武昌-鄭州間は536キロ。これを5時間18分で走る。平均時速は101キロである。この列車は、広州から一直線に北へ向かう京広線を進み、武昌、鄭州を経て、はるか北の長春まで向かう。走行距離3313キロ、所要時間36時間23分。広い中国大陸の南から北へ走りぬける。
 僕らの向かいと隣の6人がけの席に座る一家は、南京から河南省の鶴壁という町に行くらしい。どこから来たのか、どこへ行くのか、などと聞いてくる。地図で旅の経路を説明して、相手の名前を聞いてみる。向かいの席に座った中年の男性が強い筆圧でなにやら書いている。我ハ貴方達ニ問ウ。1鶴壁市ニテ仕事シタイカ、2鶴壁市ハ発展スルト思ウカ、3我ノ名ハ劉究章。
 このおじさん、初対面の僕らに仕事を斡旋しているようだ。鶴壁市がどんなところかも分からないし、中国語ができない僕らにできる仕事などあるとも思えない。生真面目なおじさんは箇条書きで返事を書き始めた。主要産業、1煤、2発電、3電子工業・・・。市政府に勤める偉い方のようだった。真に受けて鶴壁市に行ったらどうなるのだろう。
 筆談合戦になった。一家のお母さん、その息子の大学一年生、席がなくて廊下に立っていた男性も参入してきた。息子と英語で話してくださいな、アイ・アム・イングリッシュ・不好、私の田舎はねえ、昔日本人たくさんいたんですよ、あなた満州国知ってますかい。
 そんななか、何列か後ろから初老の男がやってきた。僕に新聞を手渡し、人差し指で紙面を叩きながら、語気荒くなにか言った。指差した記事は、日本政府が国防政策を転換して、中国を敵視しているとある。一家は慌てて、その男を追い払い、記事を捨てようとした。僕は彼らを制して記事を読み、旧満州国出身の男性のノートに返事を書いた。僕の父や母方の祖父が戦前戦中に中国大陸に住んでいたことを書いた。お母さんが僕のメモを音読するのを真剣な顔になった彼らは、いちいち相槌を打って、頷いていた。
 考えてみれば、この列車が走る線路を60年前には日本兵を載せた軍用列車が走っていたのだ。日本にとって因縁のある土地に入った。

長沙から岳陽へ~唐辛子催涙ガスの巻

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紐につながれた猫(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 湖南省に来た。食堂に面する路上。油が敷かれた中華鍋に唐辛子がぶちまかれる。通り過ぎるだけで目が痛くなり、咳き込む。まさしく催涙ガスだ。宿に帰れば、やはり刺激臭が充満していた。部屋の真横が台所になっていて、従業員が調理している。湖南の料理は辛いことで有名とは聞いていたが、実に凄まじい。ラー油の中に具材が浮いている要領で、具材がまた塩辛いことが多い。干物を多用するからだ。これを咳き込みながら食う。
 湖南の言葉もまた広東語とは全然違って聞こえる。ズダラッ、ズダラッ、と末尾だけが耳に残る。もう椰子は見かけない。短パンをやめて、長ズボンとセーターを着込む。一夜移動しただけで、真夏から秋になり、別の料理、別の言葉の土地に来た。中国は広い。
 長沙、韶山を経て岳陽に着いた。猫が路地を徘徊し、子供が市場をすり抜けて遊ぶ。湖畔の道を進めば、先に古い塔楼が見える。気づけば夕陽時。斜陽に彩られた道に紐につながれた猫がいた。中国では時おりこんな猫を見る。つながないと逃げる、と飼い主は言う。一日中、子どもにからかわれて哀れな猫だ。
 歩き疲れて食堂に入った。店頭の蒸篭を空けてもらうと、小皿に肉や野菜が入っていた。蒸菜というらしい。素朴な料理だが、これがうまかった。薄切りの蓮根がしゃきっと口の中で音を立てる。肉には大麦か何かの穀物が和えてあって香ばしい。蒸菜は岳陽の料理なのだろうか。和華子が店主に尋ねたら、そうではないという。これをきっかけに店主がおずおずと近寄ってきて、話しかけてきた。あなたたち日本人でしょう。雰囲気でわかりました。私の妹は東京に住んでいるんですよ。そう言って、頼んでない皿を運んできた。湖南の人は、過激な料理が好きなわりには、話してみると穏やかで素朴な人だと思う。妹が日本人に世話になっているから、と僕よりふたつ年下の店主は言い、どうしても代金を受け取ってくれなかった。
 岳陽の猫路地を散策し、杜さんの蒸菜をタダで食べて、何日かを過ごした。そろそろ出発しないとならない。一週間もすると、「十一黄金周」と呼ばれる連休が始まる。どうせ足止めをくらうなら、見どころが多そうな北京にしようと考えた。杜さんに見送られて、僕らは岳陽の駅から京広線の上り列車に乗った。

深セン~中国の旅はやめられないの巻

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沙頭角の検問所。中国人が大勢中英街に”一日游”しにいく(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 香港から羅湖行きの通勤電車に乗った。40分ほど団地だらけの風景がすぎ、だんだん田畑が増えてきたところで終点になった。改札を抜けると、そのまま香港出境の検問所である。人の流れに従い、通路を進んで、あっけなく深セン駅に着いた。国境にへばりつくこの超現代都市を見てみたいと思って、泊まることにした。
「いいホテルあるぞ、4ツ星なのに200元(約3000円)、どうだ?」
 駅の外で宿の客引きに捕まった。中国らしからず英語をしゃべる。事前に安宿の目星をつけてあるので、自信持ってあしらう。旦那はめげない。60元の宿が徒歩3分のところにあると言い出す。本当にあった。冷房、有線テレビ付きで65元。貰った名刺には武装警察招待所とあるが、家族が住むアパートの一室。中国の旅はこれだからやめられない。
 翌日、市バスに乗って、芝生に高層アパートが並ぶ深セン市内を駆け抜けた。降りたのは沙頭角。一本の道の両側がそれぞれ中国と香港になっているところがあるらしい。中英街という。香港側からは入れないが、中国からなら入れるかも知れない。
 並木道の突き当たりに現代中国らしい奇抜な検問所ビルが建っていた。外国人は公安局で許可を取れば中英街に行けると案内板にある。警官に再確認すると、公安局の場所を教えてくれた。5元で済むという。果たして公安局に着いて、筆談。険しい表情の女警官は達筆だ。外籍人士不可以弁証。這里是辺防禁区。
 やっぱりこれかよ。現場に行って状況を確認するまで、はっきりしないのは、途上国どこでも同じだ。諦めて検問所に戻る。入境許可代行屋とおぼしき連中に声をかけられた。僕は外国人だからダメだよ、と筆談。群がる代行屋の中にはたちぐらいの青年がいた。僕の筆談ノートを一枚ちぎって、でたらめな書き順で下手な字を書く。
「我有身分証 借 5元」。おいらの身分証を貸してやるよ、ほら。ニキビ跡が頬に残るあどけない青年の白黒写真が貼ってあった。僕に似ていなくもない。中英街に自由に出入りする資格のある地元の住民だという。一瞬迷ったが、あまりに危ない。目と鼻の先は警官だらけなのだ。僕らがおどおどと検問所を通った瞬間に捕まるだろう。しかし、ここは中国だ。なにが起きるかは、現場に行くまで何もわからない。
* 深セン=センは土偏に「川」の字。

珠海からマカオへ~超現代都市と「一国両制」の街の巻

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拱北口岸(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 改革開放政策の一環として、最も早く経済特区に指定された珠海市。99年までポルトガル領だったマカオに接する広東省中部の都市である。80年代後半から急激に開発が進んだ街だけに、街路は滑走路のように幅広く、車窓には緑地が美しく広がり、真新しいデパートやファストフード店が目立つ。筑波学園都市や多摩ニュータウンにどこか似ている。あとで知ったことだが、この街は緑地率が45パーセントにもなるそうである。
 バスターミナル内の招待所に部屋を取って、市バスで拱北口岸に向かった。ここにマカオ国境がある。マカオは中国に返還されたから、国境という言葉遣いは正確ではないけれど、実際上は国境以外のなにものでもない。外国人はパスポートがないと越境できないし、「一国両制」政策の下、マカオは中国本土とは別の政治経済体制が維持されているからだ。
 国際空港のターミナルビルのような巨大な拱北口岸。パスポートに出境印をもらい、建物を出て、群集の共に通路を進んだところに同じようなビルがあった。Entradaとポルトガル語表記に繁体字の中国語表記。ここからの澳門特別行政区は同じ中国でも言葉が違う。入境印を押され、行列に着いて行ったところは、ゴミゴミした下町のようなところだった。
 湿気で黒く変色した高層アパート群、鳥籠みたいな鉄柵に覆われた窓から洗濯物が突き出し、繁体字の看板が仰々しい。ビルの谷間は狭い道、日本車が渋滞し、スクーターが走る。超現代都市の珠海とあまりに極端な違いだ。先進国から途上国に来たかと錯覚しそうだが、実際にはマカオの方がはるかに「国民」所得は高い。
 14年前にマカオに来たことがある。香港から高速船で到着し、繁華街の新馬路へ歩いて行った覚えがある。霞がかった海を横に見ながら、うら寂しい大通りをだいぶ歩いた。さきほど国境から乗った市バスは同じルートを進んでいる。記憶と違って、オフィスビルが建ち並んでいた。90年代に新たに大発展したのか、記憶がいいかげんなのか。
 見覚えがある新馬路の入口でバスを降りて、振り返るとリスボアホテルが見えた。前に来た時、ここのカジノに入った覚えがある。リスボア。ポルトガルの首都リスボンは、現地ではこう呼ばれる。一年と2か月前、そのリスボアから旅を始めた。ユーラシアを陸路で東進して、やっと極東まで来た。またリスボアに再会した。

那馬~華僑の源流を訪ねての巻

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那馬村の子どもが麻雀牌で遊ぶ(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 いままで会った旅人は数多いが、炊飯器を携帯していたのはピーターだけだ。
「どこでも米が食える、魚を蒸せる、お湯も沸かせる。こんなにいいものはないぜ」
 昨年の12月30日、凍える寒さのテヘランの安宿で彼に会った。香港生まれの彼は、なにを語るにせよ合理的に説明した。湯のみは洗わない、茶で変色して汚く見えるだけ。ガイドブックはいらない、地図があればどこでも行ける。面白い人だなと思った。
 旅を終えた彼は、那馬村という農村にいた。鶏が放し飼いにされた路地の奥に建つ黒レンガ造りの家。好きなだけ泊まっていい、という彼の言葉に甘えて、一週間を過ごした。
「正確に言うと、ここに住んでいるわけじゃない」とピーターは断る。「旅を終えたばかりで今は仕事がない。ここは静かだし、香港で暮らすよりも破格に安い」。彼らしい説明が続く。中国の農村部では、固定資産税がかからない。水道や電気代は破格に安い。食事は自炊、村に遊び相手はいない。本は読みきれないだけある。金の使いようがない。
「この家はね、1926年に曽祖父が建てたんだ」。2階まで吹き抜けのこの家は、風通しがいい。ピーターが増築した台所と便所が離れにある。屋内と屋外の境があいまいなのが面白い。初日の晩、酒を飲みながら、彼が家の由来を話してくれた。
「祖父が新妻と入居して、僕の父が産まれたんだ。ところが、祖父は出稼ぎに行ってしまう。キューバだよ。なぜか、そのまま便りがなくなった。生活に困った祖母はシンガポールへ出稼ぎ、父は軍隊に入り、家族はちりぢりになったんだ」
 父は国民党政府の軍隊にいた。内戦後、敗軍とともに香港に渡り、家は共産党が接収。80年代に入ってから、華僑財産の返還が決まり、ピーターの手に戻った。那馬村には香港人が取り返した家が他にも何軒かあるという。家の話は、そのまま中国現代史だった。
 那馬村が属する台山市は、「中国第一僑郷」と呼ばれ、昔から海外へ人が出て行った土地である。近年になっても海外熱は冷めない。同じ路地から何軒もブラジルへ行った、故郷を捨てなければならないのは悲しいことだ、とピーター。しかし、同時に彼は「自分は中国人とは思わない。強いて言えば、香港生まれの人」と言う。週に2日しか市が立たない那馬村からキューバ、シンガポール、香港、ブラジルへ。人は故郷を捨て、旅に出て、違う人になる。

陽江~観光ルートを外れの巻

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新興都市の夕暮れ(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 北海から北へ広西の首府、南寧に向かえば、観光ルートに戻れる。雲南省に行ってもいいし、北東には桂林がある。しかし、僕らはそのまま東シナ海の沿岸を辿って東進したいと思った。観光地を外し、普通の町を見たいと思ったのと、もうひとつは、旅で出会った人を訪ねるためだ。9か月前、師走のテヘランで会った香港生まれのピーターが広東省にいる。中国に入ってから電話をかけた。北海から陽江行きのバスに乗り、北徒行きに乗り換え、更に台城行きに乗ると、およそ10時間後には彼のいる村に着くということだった。
 北海から7時間かけて到着した広東省陽江は、観光地ではないようで、一千ページ近い僕らのガイドブックにも載っていない。中国にも慣れてきたし、なんとかなるだろう。ここに泊まってみよう。今までと同じように、バスターミナルから乗った摩托(モーター)三輪車は、立派な幹線道路を走りに走り、ビルが並ぶ新興都市に入った。繁栄した産業都市みたいだ。
 初老の運転手は、道すがら適当に宿を見つけては、あれはどうですかね、と自信なさそうに仕草する。もともと安宿など知らないのだ。バスターミナルで買った地図を手に、中心部らしき方角へ運転手を誘導し、賑やかな交差点で下ろしてもらった。
 そこから徒歩1分、見つけた宿は城東旅店。二人部屋なのに25元(約320円)。カンボジア並に安い。宿主は僕らが日本人と知って、奥さんと相談した末、いいんじゃないの、となって、泊めてもらえた。中国に入って3都市目。町は大きくなるのに、宿代は下がる一方。
 陽江の公衆電話屋で和華子がまた若い女の子と仲良くなった。この子も英語がかなりうまい。湖南省の大学を卒業して、1年前に陽江の貿易会社に就職したミンちゃん。とても早口で、頭の回転が速い。電話屋の前でわずかの時間、立ち話をしているうちに、「あなたはものを書く仕事をしている人ですか」と言う。どうしてそんなことがわかるのだろう。勘がいい人だ。彼女に連れられ近所の茶屋に行く。僕らを席に着かせた後、勘定場で店員と話しこんでいる。戻ってきた彼女が滑らかに言った。
「あなたたちの分の注文と支払いを済ませて来ました。実は私、いま20元しか持ち合わせがなくて」
 この国の人は実に面白い。

北海~一帆風順、老街の巻

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北海の老街(2004年)
Photograph by Kenta Tanimichi


 東興から直達快班(急行バス)で東へ3時間、海南島に近い沿岸都市、北海に着いた。バスターミナルを出たら、三輪車と呼ばれるオート三輪の運転手に取り囲まれた。1元(約12円)で安宿に案内してもらうことで妥結。乗って間もなく竜門招待所に着いた。50元、トイレ、シャワー、テレビ付き。部屋を見せてもらい、宿主に「好、好」。返事がさっぱりわからず、筆談ノートを渡す。「身分証」とあるから、パスポートを差し出すと、宿主は怪訝な顔。あらま、あんたたち日本人なの。
 いままでのやり取りで、僕らは中国語が全然できないと分かっているはず。なのにパスポートを見るまで、中国人だと思い込んでいたようだ。中国語は方言の差が大きく、普通話(北京語、標準語)が上手でない人が多いと聞く。僕らを普通話が苦手な中国人と思ったのか、あるいは宿主が自分の普通話に自信がないのか。面白くなってきたぞ。ここ北海は、広西チワン族自治区の西端にあり、広東省に近い。地元の人が話す言葉は広東語が多いようだ。
 食堂でも同じようなやり取りが展開される。広東語でレイホウと言って店に入り、メニューを物色する間に、店主がワーワー話し続ける。全く分からないが、適当に相槌を打って、できるだけぞんざいな仕草で料理を指差す。このとき日本語にデタラメな抑揚をつけて言ってみる。なぜか通じる。僕らのことを方言のきつい奴らとでも思っているのだろう。外国人扱いされないのは、気持ちいい。解放感みたいなものを味わう。
 中心部にある竜門招待所の周りは、古い町並みが残る。道の両側の建物は、2階以上が迫り出して庇になった造り。1階部分の道路際は、雨に濡れず、陽射しが遮られた歩道になるのが南国らしい。どんより雲が覆う日、風雨に荒んだモノトーンの老街。家の玄関口に決まって貼られた赤い紙には、どれも一帆風順とあった。近くに漁港がある。
 老街の歩道で、老人は煙草をふかし、猫は寝そべる。麻雀牌がかき混ざる音があちこちから聞こえてきた。家族麻雀の卓を見つけ、覗くが、日本とはだいぶルールが違うようだ。捨てた牌は並べずに投げつけ、無言でどんどんポン、チーをし、上がる。誰かが上がると、すぐに洗牌するから、上がり役は分からずじまいである。

東興~隣の芝生は汚く見えるの巻

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東興の茶屋で(2004年)
Photograph by Kenta Tanimichi


 宿の近所のインターネットカフェで和華子が店員の女の子と仲良くなった。旅をしていて知った和華子の特異な才能だ。どこでも子どもと若い女の子に仲間扱いされる。僕がインターネットをし終わる合間に翌日、店員の子の家にお呼ばれする約束までしていた。
 そんなわけで翌朝9時、僕らは18、9の女の子4人と朝食を共にしていた。高校を卒業したばかりで、ひとりを除き、翌月から大学に入学する。昨夜、和華子がインターネットカフェの受付で、日本語ガ使用可能ナ電脳有ルカ、とデタラメ中国語メモを渡した。店員の子は、口を手で覆い、目を丸くして、英語で言った。「日本人に会うのは初めてです。私はとても嬉しい」
 彼女たち4人組が日本のポップカルチャーに通じていて驚いた。浜口あゆみ、SMAP、ちびまる子ちゃん、クレヨンしんちゃん。カタコトの日本語まで話す。こんな僻地で育って、どこで知ったのだろう。テレビですよ、とあっけらかんと答える快活な小路ちゃん。もっとも、「私たちハーハンなんです」。「哈韓」と書き、韓国ポップカルチャーが好きな人たち、の意味らしい。僕らが旅に出た後になって、日本では韓国ドラマが大ヒットしているが、これは東アジア共通の現象のようだ。ミャンマーからベトナムまで、昼過ぎの市場を歩くと、店番をする女性たちが韓国ドラマに食い入る光景を目にした。ここ中国でも、韓国カルチャーが若い女性の心を捉えている。日本カルチャーは、ちょっと古いらしい。
 東興の中学で同級生だった4人組にベトナムの話をすると、いい顔をしない。ベトナムは経済的に遅れていて、汚い国。彼女らがバイトするインターネットカフェから5分も歩けば国境だ。川を渡って、毎日ベトナム人女性が物売りにやってくるのを目撃している。なのにベトナムに行ったことすらない。いままで訪れた国境の町で何度も似たような話を聞いてきた。隣の芝生は汚く見えるのである。
 彼女たちは日本のアニメを見て育ち、韓国のドラマに心ときめかせ、英語を磨いて、一月たたないうちに、別の地方へ散っていく。きっと5年後、10年後には、彼女らの何人かはどこかの外国に住んでいるような気がする。そのとき、彼女たちとまた会ってみたいと思った。
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