Tanimichi World Blog

世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

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ベトナム

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VIETNAM, Jul/Aug 2004
* Chau Doc#
* Can Tho
* Ho Chi Minh
* Mui Ne
* Nha Trang
* Hoi An
* Hue
* Dong Hoi
* Ha Noi
* Cat Ba
* Ha Noi to Ha Long
* Ha Long
* Mong Cai
# 写真撮影地。Photograph by Wakako Takatsuki

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Map courtesy of the U.S. Central Intelligence Agency.

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ハロン湾~「僕があいつで、あいつが僕」の巻

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ハロン湾(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ジョーの両親を乗せた小船は、ブンタウ沖を出てから8日間漂流した。母は妊娠中で、11か月の乳飲み子を抱えていた。餓死寸前だったらしい。ようやくイギリスの船に救出されたとき、食糧はもう尽きていた。
 階下にいるにこやかなお母さんがそんな経験をしたとは思いもしなかった。そして、彼女の腹の中にいたのは、さっきまで話をしたジョーの姉である。乳飲み子だったジョーの長姉は弁護士になったという。
 ジョーの父は、渋るイギリス船の船長を口説き落として、イギリスまで連れて行ってもらった。
「もし、イギリス船ではなくて、日本の船だったら、僕らはいま日本語で会話をしているだろうね」とジョーはそう言って、僕らは笑った。ジョーの両親と11か月の姉を乗せた船はイギリスに着いた。そこで彼は生まれ、のちにアメリカに移住したので、イギリスとアメリカの国籍を持っている。
「ある日、サイゴンの街を歩いていて、自転車に乗った同世代の男とすれ違って、ふと思ったよ。もしかすると、僕があいつで、あいつが僕だったかもしれないな、ってさ。妙な気分になったよ」
 僕にも思い当たる体験があった。5年前、16年ぶりに小学校時代を送ったカナダのバンクーバーに行った。連絡が取れた旧友は様変わりしていた。日本語ができなくなっていたのだ。僕が知っている頃の彼は、日本の流行に通じていて、英語がそれほど得意ではなかった。僕よりも何年か後にカナダに移ってきたからだ。16年後、彼は僕を連れて洒落たレストランに行き、ウェイトレスに気の利いたことを口にして、笑わせていた。奇妙な気がした。僕の両親が彼の両親のように、カナダに移住することにしていたら、僕は彼のようになっていたのかとふと思った。
 両親が脱出を諦めていたら、途中で捕まっていたら、死んでいたら、イギリスではない国に行っていたら・・・。人は親の決断や運命のさじ加減で別の国の人になったり、ならなかったりする。ジョーと僕は、夕陽の時間までそんな話をして過ごした。

ハノイからハロン湾へ~僕の両親はボートピープルだったの巻

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早朝だけ安宿の前の道は朝市になる(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ハノイの宿から、はす向かいに伸びる狭い通りは青空市場だった。市場で働くベトナム人はいつもなにか手を動かしていないと済まないようだ。葉野菜は長さを揃えて紐で縛る、果物は4分の1ほど皮を剥いて陳列する、臓物はきれいに洗って水に浮かべる、エビは殻を剥いて石で叩いてペーストを作る。品物はどれも生き生きしていて、美しい。
 メコンデルタから北へ2000キロ、ハノイまで来た。気候も食も南部とはだいぶ違う。南部では、雷鳴に気づいたと思えば豪雨に襲われ、汁麺に生もやしとミントの葉を豪快にぶちこんで食べた。ハノイの雨は、日本の梅雨のように寂しげである。麺の薬味は葱だけ。物足りない気がする。
 バンコクからエノモト先輩がやってきて、また高級料理を奢ってもらったりして、数日が経った。これから中国へ抜けようと思う。名勝ハロン湾に行くツアーに参加し、現地でツアーを離脱して、国境へ向かうことにした。ハロン湾から海沿いに東へ150キロほど進んだモンカイに陸路国境がある。ツアーに含まれる食費や宿泊費を考えると、自力でハロン湾へ行くよりもはるかに安いのだ。ベトナムの現地ツアーの安さにはいつも驚かされる。
 海に岩山が点在するハロン湾を観光船で巡る。ツアー参加者の中に、ヴィエトキウ(越僑)一家がいた。ベトナム戦争の終結前後、大量に国外脱出した人々だ。いまはカリフォルニアに住む母と息子とハノイで働く娘。昼下がりのハロン湾をゆっくりと進む観光船で、彼らはそんな風に自己紹介した。僕らがベトナムの旅の印象を話して、彼らが感想を言ったりした。陽気でいかにもカリフォルニアの若者っぽいジョーが僕を観光船の屋上に誘った。海は岩山に茂る木々が反射するのか緑色だった。
「今回の旅でブンタウに行ったんだ」。屋上に座り込んで、ジョーが語り始めた。サイゴンに近い海辺のリゾート地である。「僕の両親は、ベトナムを離れる直前にしばらくブンタウにいたらしいんだ。母が20数年ぶりに行ってみたいと言い出してね。親戚筋が浜辺で地所を持っていて、そこで脱出するタイミングを計っていたらしんだ」
 脱出って、まさか船で出国したのか。
「そう、僕の両親はボートピープルだったんだ」

ドンホイ~静かな漁港のつつましい女の子の巻

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安宿から見たドンホイの風景(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 フエから乗った一般バスは、窮屈このうえない。満員で出発したが、おかまいなしに客を拾う。ふたりがけの席には3人目を押しやり、補助椅子を開いて座らせ、ドアステップに立たせる。途上国のバスは、どこでも満員にならないと出発しないが、ここまで詰め込むのは思い出せない。もう身動きは全くできない。切符代は16倍ふっかける、乗り心地は最悪、冷房はない、となると、外国人がみなツアーバスに乗るのも無理はないだろう。
 僕の左隣はおとなしい小学生ぐらいの男の子で、ビニールに入った小魚を手にしている。車は古都フエから北へ進み、水郷地帯を走りながら、こまめに客を拾い、下ろす。いくつかの町をすぎ、土が露出した大地が広がった。そろそろ旧DMZに入ったはずである。非武装地帯のことで、1975年に南北ベトナムが統一されるまで、緩衝地帯であった。英語の得意な乗客のホテルマンに、そろそろ昔の国境に差しかかりますよ、と話してみる。実際に昔の国境橋を越えたとき、彼は周りの乗客に僕の情報を伝えたが、誰も興味がないようだった。統一してから30年近く経ったのだから、そんなものかもしれない。統一前から社会主義体制にあり、戦争に勝利した北ベトナムに入る。
 発車してから5時間後、バスが止まった。車掌が僕らに「ここで降りろ」と言う。窓から飛び降りろ、と周りの乗客。補助席が埋まっていて、ドアまでたどり着けないのだ。静かな漁港がある地方都市ドンホイに着いた。
 この町では英語はほとんど通じない。いままでの外国人慣れした町とは大違いだ。市場で売られるものは漁具が多く、うるさい客引きもいない。かわいい女の子が店番をしている雑貨屋が見つけて、石鹸と煙草を買う。交渉しなくても安いのがありがたい。
 夕方に市場に近いカフェでアイスコーヒーを飲む。僕はアイスコーヒーが好きではなかったが、ベトナムに来て変わった。この国のコーヒーは実にうまい。フランス帝国主義の置き土産である。偶然、昼間の雑貨屋の子がカフェに入ってきた。恥ずかしそうに和華子と話す19歳。明日、昼の11時にこのカフェでまた会おう、ということになって、出向くと、また恥ずかしそうにプレゼントと手紙を和華子に差し出す。アオザイを着た自分の写真まで入っていた。映画に出てくる昭和30年代の日本人みたいにつつましい。

フエ~16倍はやりすぎであるの巻

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走行中にカメラを取った和華子も勇気がある(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ホーチミンからムイネ、ニャチャン、ホイアンを経由してフエまで行った。ベトナムを縦断する国道1号を海岸に沿って北上する。南北に細長いこの国では、たいていの旅人が同じようなルートを外国人用のツアーバスで移動することになる。ツアーバスの方が鉄道や一般のバスよりもはるかに安いのだ。これに乗ると旅は楽である。郊外にあるバスターミナルまで行かなくていいし、バス代を交渉しなくていい。安宿も斡旋してくれる。
 ただ、楽すぎると旅はつまらなくなる。フエからは自力でハノイに行くことにした。バスターミナルまではバイクである。ベトナムでは、バイクで市内移動する。15キロはある、縦長のバックパックを運転手の足元に立て、僕は後ろに乗る。ヘルメットはない。
 バスターミナルは中心部からバイクを飛ばして15分。客引きが群がってくる。
「ドンホイに行くんだな、フォーハンドレッド、フォーハンドレッド」
 40万ドンのことか。ベトナム人は、値段を1000分の1にして口にすることがある。40万ドンは2800円ぐらい。160キロの移動がそんなに高いわけがない。ツアーバスなら、ホーチミン・ハノイ間1700キロが2000円弱なのだ。40万が30万になったが、信用ならない。バスターミナルの建物に入ると、黒板に2万5000ドンとあった。客引きの言い値は定価の16倍だったのだ。
 いい根性をした奴だ。いままで方々でふっかけられてきたが、高くて5倍、だいたいちょうど2倍が多い。16倍はいくらなんでもやりすぎである。
「2万5000はベトナム人、ユーは外国人。荷物も多い。20万!」
 客引きは懲りずに理屈をこねる。ここまで渋といと、呆れてくる。もうドンホイに行けなくてもかまわない。気を楽にして、建物の前に荷物を置いて、腰掛けた。
「わかった、わかった。運賃が5万、荷物代が3万の計8万!」
「荷物代なんか払わないぞ。他の客はでかいダンボールを持ち込んでいるじゃないか」
 結局、ひとり4万、荷物代なしで手を打って、バスに滑り込むと、ベトナム人も同じ金額を支払っていた。どうなっているのかわけがわからない。家畜まで積んだ寿司詰めバスは、のろのろと北へ向けて走り出した。

ホーチミン~変貌した街の巻

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豪雨のなかバイクが走り抜ける(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 市内はバイクの洪水だった。バスターミナルから乗った市バスは、クラクションを鳴らしてバイクをはね退けながら進む。冷房が効いた快適な車内から見たサイゴンは、人通りの多い、華やかな大都会になっていた。
 公式にはホーチミン市と呼ばれるこの街に初めて訪れた1991年。そのときは、渋滞なんかなかった。空港からの旧式ルノーは、静寂と暗闇の街に不相応な並木道を通って、市内に向かっていた。社会主義全盛期だった。短期間の旅でも外国人登録やら国内旅行許可やらが必要で、外国人旅行者は数えるほどしかいなかった。
 いまサイゴンにはアジアでも有数の安宿街がある。インド料理から和食まで、ビザの延長からガイドブックの海賊本まで、ホーチミンTシャツからマリファナまで、なんでも揃う。あのサイゴンに戻ってきた実感が沸かない。
 各地で出会った旅人と再会したりして、この街で1週間を過ごした。13年前に泊まったホテル、訪れた博物館や市場、出合った人の家を歩き回った。小汚い国営百貨店は冷房がギンギンに効いたショッピングセンターになっていたし、毎日遊びに行った一家の家は食堂になっていた。記憶していたサイゴンの薄汚れた風景は、純白とクリーム色に塗り替えられていて、レロイ通りを行く人々はみな忙しそうにしている。ベンタン市場前のロータリーで、青空に浮かぶ入道雲を見て、やっと見覚えのある場所に来たと思った。
 大学に入った年から毎年のように旅をしてきた僕にとって、サイゴンはもっとも強く印象に残る土地だった。ベトナム戦争が終わってから16年も経っていたのに、残滓が色濃く残っていた。シクロの運転手はテキサス訛りのべらんめえイングリッシュで窮状をまくしたてていた。戦時中、テキサスのどこかで訓練を受けた南ベトナム空軍のパイロットたち。まともな職に就けない、共産主義者がベトナムをダメにした、国を出たい、と口々に言った。市場の売り子をしていた20歳の女の子に求婚された。冗談かと思い、あしらったら、大真面目な顔で、いかにベトナムには未来がないかを訴えた。
 いまサイゴンの人たちはなにを考えているのだろう。ふらふら街を歩いている外国人に声をかけてくれるのは、屈託のない物売りだけである。

チャウドック~フランス語を話す運転手の巻

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チャウドックの市場(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 バスが止まって、目が覚めた。メコンの川原にいた。ラオスでは、小船でこの大河を遡った。今度は流れに従って南下する。目指す先はベトナム国境だ。
 芝生の中のカンボジア側国境事務所で出国印をもらい、5分ほど緩衝地帯を進んだところにベトナム側の検問所があった。上陸したとたんに物売りの子どもが襲いかかってくる。ユー・ワン・チューインガム? ハウ・アバー・コーク? 草色の制服が吼え、子どもは散る。短い音が激しく変調するベトナム語の罵声。銃声みたいな言葉だ。
 陽気でのどかなカンボジアから5分進んだだけの国。血の巡りが速い人たちが怒鳴りあい、走りまわる。船を乗り換えて2時間後、メコンに面する地方都市、チャウドックに着いた。オートバイをすり抜け、水浸しの市場で海藻と小魚の目玉状の物が入った飲み物を飲んだ。帰り道に酔っ払いに呼び止められた。なぜかえびせんを浮かべたビールを差し出してくる。呷ると、男たちは大喜びして、こんどは焼酎を勧めてきた。陽気な人たちだ。
 この町でオートバイの運転手に話しかけられた。カンボジアで生まれ育ったベトナム人、と滑らかなフランス語で自己紹介するムッシュー・ルン。
「プノンペンのリセでフランス語を勉強しておりました。トゥールスレンという高校です」
 クメールルージュの刑務所だった高校だ。数日前に行ったばかりの高校の見取り図を描く。ムッシューはA棟を指差して、ここが私の教室でした、と言った。拷問ベッドがあった部屋。1975年、彼は卒業を待たずして中退した。学校が閉鎖されたからだ。首都を乗っ取った共産軍は、全市民に「避難」を命じ、彼は地方の寒村に収容された。強制労働の日々が始まった。ときおり目をつけられた者が黒服を着た兵士に連行されていった。ひとりとして帰ってこなかったという。一年後、ベトナム人は申し出るように、と呼びかけがあった。誰も応じなかった。殺されるとしか思えなかった。その後も呼びかけは続き、結局ベトナムに引き渡された。両国の政治取引だったらしい。
 それから28年。彼は一度もカンボジアに戻っていない。いまだにベトナム語の読み書きは苦手というムッシューは、いつか必ず母校を見に行きたいと、そればかりを繰り返した。ここはカンボジア国境から2キロ離れただけの町である。
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