Tanimichi World Blog

世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

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タイ

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THAILAND, May-Jul 2004
* Bangkok
* Nong Khai
* Chiang Khong
* Chiang Saen/Golden Triangle
* Chiang Rai#
* Akha village
* Mae Sai/Tachileik (Myanmar)
* Chiang Mai
* Mae Kuang dam
* Bangkok
* Chiang Mai to Bangkok
* Aranyaprathet
# 写真撮影地。Photograph by Wakako Takatsuki

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Map courtesy of the U.S. Central Intelligence Agency.

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アランヤプラテート~トイレを借りに不法入国の巻

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カンボジアへ不法出国する女(2004年)
Photograph by Kenta Tanimichi


 アランヤプラテートからオート三輪のトゥクトゥクに乗って15分、カンボジア国境に着いた。国境のタイ側は、あたり一面市場である。衣服、食料品、日用品ばかりを売る小さな店がひたすら並ぶ。
 市場から検問所につながる道路を越えて、国境の川を見に行った。空き地を歩いて小川に近づく。タイ語で呼び止められた。黒い制服を着た男がなにか言っている。カンボジアに行くのか、と制服男が英語で言い直した。国境を見に来ただけだと釈明すると、男は表情を緩めて、世間話になった。陸軍の兵士だという。
 話をしているうちに、小川を渡って、若い女が土手を登ってきた。兵士になにか早口で言い、しきりに腹に手をあてる仕草をする。兵士は女をなだめるが、言うことを聞かない。結局、振り切ってタイ側へ走って行った。
「カンボジアの女でね、病気だと言うんだ。トイレに行きたいんだと。すぐに戻るからタイのトイレを使わせてください、苦しい、苦しい、って言うから、しかたなくて」
 のんきな国境だ。その後もカンボジアの子どもが5、6人、タイの方から走って来て、小川を元気に渡るし、別の女が言い訳をしてカンボジアに帰って行く。兵士は「子どもはしようがないんだけど、大人はちゃんと国境検査を通らないと困るんだよなあ」と嘆く。
 翌日、正規の国境でタイの出国印をもらって、国境の橋を渡る。カンボジアに入ってすぐのところはカジノが林立している。賭博が禁止されているタイから大勢の観光客がやって来るそうだ。カジノばかりの通りを歩いて、やっとカンボジアの入国検査場を見つけ、スタンプをもらった。
 ここポイペトからアンコールワットがあるシアムリエプまでの道は、悪名高い。舗装がされてないガタガタ道をトラックの荷台に揺られて6時間かかると今まで何度も耳にしてきた。気を引き締めて、トラックと交渉。荷台は200バーツ(約560円)、車内は250バーツ。僕らは冷房が効いた快適な車内に、一緒に国境越えをしたカナダ人のオレンは荷台に乗った。ワイルドな旅がしたいのだそうだ。4時間と風雨と縦揺れの末、日暮れ過ぎにシアムリエプに着いた。どんな国なのだろう。

チェンマイからバンコクへ~外人旅人租界から脱出できずの巻

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バンコク中華街で(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 タイ最北端の町、メーサイからチェンマイに南下し、夜行でバンコクに出た。再び友人らと夜遊びにふけったあと、ディーゼルカーの3等車に乗って、カンボジア国境のアランヤプラテートへ向かった。
 足かけ52日間滞在した計算になる。この旅で最も長期間滞在した国になった。タイは居心地がいい。道路はきれいに舗装され、都市間バスが絶え間なく走る。予約などせずにターミナルへ出向けばいい。乗り心地もいい。夜行列車の2等寝台は、インドあたりと違って、シーツや枕もあり、快適。24時間営業のコンビニが田舎町でもある。食事もうまい。それでいて、なんでも安い。一番安かった部屋が1泊80バーツ(約220円)、首都バンコクでも160バーツで泊まれた。これは二人部屋の料金だ。
 ただ、ふと思い返すと、長くいたわりには地元の人と話すことがなかった。宿の従業員と必要に迫られて話をするぐらい。町をぶらついていて、話しかけられたことが一度あっただけだ。バングラデシュ人だった。大学時代から数えて、タイに来たのは今回で8度目になる。今までも偶然の出会いに乏しかった。タイ人の気質なのだろう。歌うように優雅に話し、めったに声を荒くしない人々。市バスに乗っていても、仏像のある交差点でひっそりと手を合わせて会釈する人々。それでいて、下手なタイ語で道を聞くと、そっぽを向く人がいる。旅がしやすい国ではあるが、偶然のハプニングに乏しいところだと思う。
 地元の人との出会いがない分だけ外国人の旅人と遊び歩くことが多かった。チェンマイでは、宿からろくに出かけずに”沈没”していた。ラオスで一緒だった京都の健康優良児マユコちゃん、頭脳明晰なイスラエル人3人組、とあるカルト教団の指導者を父に持つ悩めるアメリカ人のスマ、泥酔して夜中に廊下で熟睡していたドイツ人の女の子マヌー。バンコクでは、ミャンマーで出会った早口のカナダ人オレンやフランス人カップルのパスカル&パスカルと遊んだ。沢村浩行さんという60年代から放浪旅行をしている方に素敵な旅の話を何時間も聞かせてもらったし、エイジさんにも再会した。
 旅に疲れ始めたのかもしれない。結局、外人旅人租界から一歩も出ずに、この国を後にする。次は26か国目、カンボジアだ。

メーサイ~対岸は暗闇の町の巻

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ミャンマーに帰る人たち。
背後のトラックのそばに警察検問所がある(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 タイ最北端の町、メーサイにミャンマー国境がある。4車線に整備された国道1号のホテルや土産物屋を過ぎて、突き当たりの青瓦の立派な門をくぐった。国境橋がある。川幅は20メートルもなく、商店がせまる。建て込んだ町の中心部にある国境だった。
 ミャンマーのビザはいらない。5ドルを支払い、パスポートを預け、4時半までに戻ればいい。タイに再入国すると、30日滞在の許可がもらえる。この日帰り入国制度は、外国人のビザ更新需要をあてにしているようだ。タイの法律には抵触するらしいが。
 ミャンマー側のタチレイでは、偽タバコに偽CD、偽DVDと、怪しげな売り物が多い。ミャンマーの民族衣装を着た人が目立つ。歩道はガタガタで、泥水でぬかるむ。国境川に沿った道を上流の方角に向った。半キロばかり進んで川岸に出たら、僕らの宿の対岸だった。宿はタイ領メーサイにある。ミャンマーから自分が今朝干したばかりの洗濯物を見る。
 翌朝、宿の食堂で朝食を取っていたら、声が届くくらい先に川を渡る集団があった。上半身裸になって、バシャバシャと水の中を歩いて、タイからミャンマーに向かっている。どういうわけだろう。宿の女主人に話を聞いた。
「たぶんミャンマー人が国に帰るところじゃないのかな。バンコクあたりで捕まった人がメーサイまで送られてきてね、パスポートを持たない人だから、川を渡って行った方が都合がいいわけよね。400バーツ(約1100円)ぐらい払ってるみたいよ」
 正規の国境でミャンマー側に引き渡すと、不法出国の事実が記録に残ってしまう。そこで、不正規に送還をしてあげている話というだった。タイ側の警察検問所で事情を聞いてみた。
「そうそう、あそこの宿のところでね、ミャンマー人は渡っていいの。タイ人はダメ。あんたもダメだよ。渡ったら向こうの軍に捕まるよ。ミャンマーの人は毎朝こっちに来てね、夕方6時までに帰ることになってんの」
 片道15バーツ(約40円)の通行切符が必要らしい。両国の地元官憲が一応管理しているらしい。限りなくグレーな国境風景だ。日暮れの時間、ちらほらと川を渡る人が見えた。タチレイは暗闇だ。電力事情が悪いミャンマーらしい。発動機の音が風に乗って、国境を越えて聞こえてきた。

チェンライ郊外アカ族の村~山の海洋民族の巻

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山岳民にも文明が及んできた(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 タイ北部のチェンライからアカ族という山岳民族の村に行った。まだ30代の村長が運転する四輪駆動車に乗って23キロ、40分。街道から折れ、土が露出した山道を登る。村に入った。
「ここはタイ人の村。次にシャン族、中国人の村。アカの村は頂上近く。まだ先だよ」。同乗したイギリス人のジョンが説明してくれる。アカ族のなにかに魅力を感じて流れ着き、7か月経つ58歳。四駆が最後の急斜面を這いつくばって、上りきったところに村があった。
 メコン中上流域は山岳民族の宝庫である。山岳民と盆地に住む農耕民とは、それぞれ独自の生活様式や言語を保って棲み分けてきた。タイ北部では、盆地にタイ族やラオ族が住み、山にチベットやミャンマーに起源を持つ山岳民や中国国民党残党の村々が点在している。
「アカの人たちは、いまでも町に出るときに『タイに行く』なんて言うんだ」とジョン。最近までタイ政府の支配が及んでいなかった。出生届を出さず、通学や投票などの公民権がない状態が続いた。最近は、中腹のタイ人の村に学校もでき、変わりつつあるという。
 この村では、村長が会社を興して観光客相手の宿泊施設を運営している。ツアーの売り込みがあるわけでもなく、あまり商売っ気がないのがありがたい。小雨が降る毎日、集落を散策して過ごした。標高1500メートルの斜面に高床式の小屋が並び、半裸の子どもが走り回る。村の女性は、自作した手芸品を並べて、手振りで売り込んでくる。タイ語で値段を聞いたが、返事はアカの言葉。大人はタイ語がわからない人もいるようだ。
 泊まった小屋から目前に広がる斜面に火がついた。まだ背丈の高くない草むらに火が走る。アカ族は焼畑農業を営む。ジョンの話では、彼らは一定期間農作をしては、土地が痩せるとともに別の山に移る。そうやって暮らしてきたが、政府の支配力が増すなか、定住を迫られつつある。
 この村には30世帯ばかりしかいない。丸一日歩いた別の山に、本村があるという。親族の行き来もあるし、村を越えた婚姻も多い。そうやって東はベトナムにまで広がるアカ族は、相互に交流を保っているらしい。盆地を海に例えると、アカ族の住む山の頂上付近は島になる。彼らは「海」には見向きもせずに、「島」を跳び回る山の海洋民族かもしれない・・・。日本人のアカ族研究家が残した冊子にこんな粋な文句があった。

* アカ族の村のホームページ「The Akha Hill House」

ゴールデン・トライアングル~むかしアヘン、いまカジノの巻

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ミャンマー(左上)に渡る艀。右上の草地はラオス領(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ルアンパバーンからのスローボートは、丸一日かけてメコン河を遡り、パクベンに着いた。翌朝、同じような小船でまた一日かけて、上流のフエサイに向かう。静まり返った田舎町。メコンの対岸にコンクリートで固められた岸が見える。タイ領チェンコーン。
 メコン中流域は、古くはシャム王国の支配下にあった。19世紀、西洋列強が侵入した末、だいたいメコンを境に東岸が仏領インドシナ連邦に組み入れられた。政治的には別の国にはなったが、両岸の主要住民はラオ族であることに変わりはない。フランス撤退後は、東岸がそのままラオスになり、西岸はシャムを改名したタイ王国である。
 運賃20バーツ(約55円)を支払い、艀に乗ってメコンを渡る。対岸まで5分もかからない。15日ぶりにタイに戻ってきた。街並みも、聞こえてくる言葉も、人々の格好にも変化を感じない。同じ民族が住むのだから、無理もないだろう。
 チェンコーンからメコンを右手に見ながら乗り合いトラックは北上する。チェンセーンの近くでメコンは、西から流れてきた細い支流と合流する。この小川もまた国境である。北岸はミャンマー領、南岸はタイ領。北に向かって合流地点に立つ。右手に見えるメコンの対岸がラオス、目の前の支流に向こうがミャンマー、足元はタイ。3国の国境地点、いわゆるゴールデン・トライアングルにいる。
 タイからラオス、ミャンマーにそれぞれ渡る観光客用の小船が出ていた。ラオス領には土産物屋と郵便ポストがあると客引きが言う。土産物屋でラオスの切手と絵葉書を買って、投函すれば、ラオスに行った記念になるという趣旨らしい。「パスポートいらない、たった500バーツ(約1300円)」と連呼するが、別に面白そうに思えない。ミャンマー行きの船乗り場に回った。こっちはパスポートが必要だ。通行料を払えば、正規に出入国もできるし、出入国印なしで短期入国もできるらしい。対岸には高級ホテルしかない。林の中に赤い屋根の立派な建物が見え隠れする。中に免税店とカジノがあるのだそうだ。
 この辺りのメコン流域は、かつてアヘンの産地だった。ゴールデン・トライアングルの異称も麻薬産地の代名詞となっている。いま、その痕跡は、露店で売られるTシャツや絵葉書のケシの花ぐらい。俗っぽい名所である。

バンコク~ユーラシア街道・文明のオアシスの巻

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数百軒の安宿がひしめくカオサン通り(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 バンコクに着いた。眩いネオン、アジア最悪級の交通渋滞、交差点ごとに見つかる7イレブン、闇夜を切り裂く稲妻と豪雨。ここは24時間眠らない街、ユーラシア街道の文明のオアシス、高温多湿の雨季の都である。14年前、インドからの飛行機がバンコクに着陸したとき、乗客が一斉に拍手したのを覚えている。そして、2004年5月、僕はヤンゴンからここに着いて、久しぶりに味わう便利さに酔いしれた。
 僕も和華子もこの街に住む友人がいる。彼らは、日本企業の駐在員や日本企業を相手に取引をする企業に勤めている。「東南アジアのデトロイト」の異名を持つタイには、日本の自動車産業があらかた進出していて、それらの企業を相手にした部品産業やサービス業が一通りある。バンコクの在留邦人は5万人に上る、という。
 連絡を取ると、友人らはみな、「悪いけどスクンビット通りまで出てきてくれないか」と返事をした。僕らの宿のあるカオサン通りは市内の西端の位置する一方、日系社会が集うスクンビット通りからは数キロ東。交通渋滞がひどいバンコクでは、移動に1時間以上かかってもおかしくない。僕らは気ままな旅人だから時間はいくらでもある。毎晩のように友人らと約束をしては、市バスに乗って、バンコクを横断した。
 ある晩、大学の先輩と待ち合わせた。居酒屋の暖簾をくぐると、ワイシャツ姿のサラリーマンが焼酎を飲み交わし、割り箸で刺身をつまんでいる。店主の女性がワイシャツ姿の先輩を見つけて、声をかけた。10日バンコクで過ごしては、東京へ10日間の買出しに行く生活が3年続いている、と店主。日本野菜や日本米は、タイ北部で取れたものを買いつける。刺身のツマまで文句のつけようのない味だった。手に入らない食材を尋ねたら、「ミョウガぐらいですかね」と若いウェイターがしばらく思い巡らしてから答えた。
 また別の晩、和華子の大学の同級生とその友人と待ち合わせた。狭い階段を上ったところに、カウンターが見えて、新橋あたりの居酒屋に入った錯覚を覚えた。イカの沖漬けやしめ鯖とつまみながら、彼らと焼酎を飲み交わして、旅の話を聞いてもらった。ここで旅を終えて、帰国してしまっても、違和感がない気もする。
 そうして2週間を過ごし、僕らは夜汽車に乗って、再び旅に戻った。
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