Tanimichi World Blog

世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

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ミャンマー

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MYANMAR, Apr/May 2004
* Yangon#
* Mandalay
* Yangon to Mandalay
* Pyinoolwin
* Hsipaw
* Mandalay
* Nyuanshwe
* Hsipaw to Nyuanshwe
* Yangon#
* A small town in Myanmar
# 写真撮影地。Photograph by Wakako Takatsuki

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Map courtesy of the U.S. Central Intelligence Agency.

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ミャンマーのとある町で~軍事政権の国の巻

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ヤンゴンの街角で(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ミャンマーは軍事政権の国である。1988年の民主化運動を弾圧して以来、国際社会との折り合いが悪く、経済制裁を受けている。グローバリゼーションから取り残されたようなところがある。コカコーラもATMもビザカードもない。ヤフーやホットメールなど大手のインターネットメールは、アクセスできないようになっている。反政府運動を恐れる政府が禁止しているのだ。
 旅行にも制限が多い。ビルマ族が主に住む平野部を除き、外国人の立ち入りがあらかた禁止されている。山岳地帯は政府の支配が十分に及ばず、反政府ゲリラが活動しているのだ。外国人が立ち入ると身の安全が確保できないとして、とられた措置である。
 ただ、気ままに旅をする上では、不便は多いが、政治的な圧迫を感じることは皆無に等しかった。イランでは、タクシーの運転手から、ホテルの従業員から、町で会う人から、何度も何度も政府批判を聞かされた。この国ではだいぶ様子が違う。むしろ、にこやかで穏やかな物腰の人々を見るにつれ、庶民はたくましく生きているな、と感じていた。
 そんななか、とある町で反政府活動をしている初老の男性に出会った。流暢な英語を操り、ユーモア交えて、いかにミャンマー政府が過酷な弾圧をしているかを語った。彼の親族には、官憲に身柄拘束され、行方不明になった人が何人もいると言う。身の丈に合わない軍事費が教育や医療をおろそかにしている、乳児死亡率が異常に高い、学校に行かない子どもが多い、昔は物乞いをする子どもなんていなかった、と嘆く。
「君ね、この国はいま原子力開発なんかに手を出しているんだぞ。ロシア人がピンウールィンに大勢やって来ていて、ミャンマー軍に原子力技術を教えているんだ」
 ピンウールィンで僕が見た技術学校を挙げると、「そうだよ、あそこだよ」と言って老人は身を乗り出した。「核兵器に手を出したりしたら、大事じゃ済まなくなる。学生を3000人殺しても平気な連中だからな」
 老人は3時間余りぶっ続けで話した。その老人は過去10年間、外国人の旅人と会うたびに同じ話をしているのだと言う。素通りしただけのミャンマーを見て、わかった気にならないでくれよ、との悲痛な叫びに聞こえた。

シーポからニュアンシュエへ~納豆、鯉のぼり、泡盛の巻

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シーポのそばのあぜ道で(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ミャンマーの北東部にシャン州がある。シャン族は自らをタイ(Tai)と呼び、タイ国のタイ族(Thai)と近しい関係にあるという。ミャンマーに行くなら、シャン州に行ってみたいと思った。東京の家のそばにシャン料理の店があって、なにを食べても実にうまかったからだ。店主はシャン族ではなく、ビルマ族。「シャンの方がおいしいから」とシャン料理の店を始めたきっかけを話してくれたのを覚えている。
 シャン州北部のシーポ。魚の干物、豆腐や高菜の漬物が並ぶ朝市を物色していたら、妙なことに気づいた。納豆の匂いがするのだ。この旅でたった一度だけ、スペインで口にしてから早9か月。何事だ、と匂いをたどると、果たして乾燥した黒い円盤状の物体であった。砕いて、炒めるらしい。中華料理で使う豆鼓かもしれない。
 数日後、同じシャン州のニュアンシュエで再び納豆にでくわした。イタリアンレストランから強烈な納豆臭がする。この匂いのするものを食わせろ、と店員にねじ込んだ。賄い食だから、と渋る店員を拝み倒して、ようやく対面したのは、納豆そのもの。ほかほかのご飯に載せて、ほおばる。唐辛子とともに炒めてある。香ばしく、実にうまい。ねばねば感はないが、納豆の味はそのままだ。まさかミャンマーで納豆が食えるとは思わなかった。
 納豆だけではない。駅で売っていた赤飯とかき揚げを買ったら、見た目も味も日本のものと違わない。漬物も日本の味に近い。沖縄の泡盛そっくりな味のする酒も飲んだ。ぜんまいもあるし、筍も食べる。鰹節のようなものまであった。ニュアンシュエの祭りでは、鯉のぼりや七夕の笹そっくりなものを担いだ子どもが町を練り歩く。あっけにとられていると、今度は日本の着物そっくりな色柄の服を来た女性たちがすまし顔で行進してきた。
 ただの偶然なのか。シャンの気候や風土は、日本に似ているのかもしれない。シャン州は標高500メートル以上の山岳地帯が多く、暑季でも平地と比べて、気温が低い。ブータンや中国雲南省でも日本と似た衣食文化があると読んだことがある。確かなことはわからないが不思議な気がする。女性の着物の起源だけはわかった。ヤンゴン在住の和華子の友人、横飛さんが教えてくれた。「キモノ・タメイン」といい、戦後になってから日本から伝わったファッションだという。

ピンウールウィン~ヒルステーションの老人の巻

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ピンウールウィンの目抜き通り。右にモスクが見える(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 摂氏45度もあったマンダレーを脱出して、標高1100メートルのピンウールウィンに来た。イギリス人は熱帯の植民地で暑さに業に煮やしては、高地に避暑地を建設して回った。単に余暇に来るだけではなくて、暑季の間、こうした“ヒルステーション”で植民地行政を司り、駐屯軍の拠点としていた。日本がイギリスの植民地だったら、軽井沢や蓼科に総督府の別館や兵営が置かれたかもしれない。
 英語の看板が目立つピンウールィンの目抜き通りで、インド人らしい顔つきをした男に声をかけられた。席を勧められるままに、骨董品を扱うその店先でくつろぐ人たちに挨拶する。ネパール、ベンガル、パンジャブからやってきた英印軍兵士の子孫たちだった。ミャンマーの民族衣装であるロンジーという腰巻を履いた老人は、彼の祖父は、現在のバングラデシュにあたる英領インド・ベンガル州出身だと話す。イギリスの植民地軍に入った祖父は、この町に転属になったまま、退役後も故郷に帰らなかった。地元の女性と結婚したからだ。三代目の彼は、インドにもバングラデシュにも行ったことがない。わしはミャンマー人だからな、と老人は言った。
 どういうわけか自転車の貸し出しもやっている骨董品店で自転車を借りて、近隣の村に行ってみた。気温は25度ぐらいで、心地いい。
 このまま中国国境に伸びる街道を北東に走った。この道は途中、ラショーという地方都市を通り、かつてここから先は「バーマ・ロード」として知られていた。日本で言う「援蒋ルート」である。日中戦争中、米英軍がこの道を使って、蒋介石率いる中国に物資を送っていた。これを遮断しようとして、大戦勃発後、日本軍はビルマに侵攻したのだ。
 街道を進むと、左手に真新しいリゾートホテルみたいな建物が何棟も見えた。やがて、4車線の黒々とアスファルト舗装された道が街道から枝分かれして、芝生と人工湖のみえる方角に伸びていった。分岐点に鄙びた周囲の風情と似つかわしくない立派な門があって、金ピカに光る英文字が「ミャンマー国軍技術学校」と読めた。
 どうせ勉強するなら涼しいところがいいもんな。首都でも日中5、6時間も停電する国のわりに、やけに立派な学校だな。そのときは、そんな風にしか思わなかった。

ヤンゴンからマンダレーへ~日本語を勉強するわけの巻

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ヤンゴンの人は男も女も腰巻を着る(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki

 ヤンゴンは暑い。4月下旬のいまは一年で最も暑い時季だという。40度はあるだろうか。それでも今朝までいたバングラデシュのダッカに比べると、格段と歩きやすい。道ははるかに清潔だし、車の運転は穏やかだ。右折レーンが機能している国に来たのは、いつ以来だろう。それに、通行人に見つめられない、むやみに話しかけられない。バングラで過ごした1か月、首都だろうが離島だろうが、部屋から一歩出れば人に取り囲まれ、部屋にいてもノックもなしに従業員が入ってきた。天と地ほども違うとはこのことだろう。
 宿から1キロほど歩いて、アウンサン市場に行った。日本語で声がかかった。今までの癖で、即座にあしらおうとするが、強く出られない。相手が穏やかすぎるのだ。口調は丁寧だし、声色も表情も穏やかで、どうしてもきつく追い払えない。結局、23歳のマウンマウン君と茶屋でジュースを飲むことになった。落ち着いて話してみると、勉強して身につけた日本語だとわかった。夜学に通っているという。この街に6泊して、日本語を流暢に話す人とよく会った。マウンマウン君の叔母さんは8年間、東京に住んでいたとかで、上品な日本語を話したし、バス会社を2社訪ねると、両方とも日本語で応対された。それほど日本人の往来が多いとも思えないのに、どういうわけだろう。
 数日後、460キロ北上したミャンマー第二の都市、マンダレーで在住日本人と出会った。日本語教師としてマンダレーにやって来て、日本食レストランを経営する池田さん。日本語を習う動機は、職を得るといった実際的なものより、「おけいこ感覚が多い」という。
「この国は経済があまりよくないからね、会社に勤めても給料はあんまりよくないんですよ。マンダレーには日系企業も来ていないですし。だから、学校を出てからコンピューターとか日本語とかを習ったりして、その後は、家の商売をやったりするわけ」
 経済統計上は世界最貧国のミャンマーだが、マンダレーなどの都市部の生活実感は、ゆとりがあり、切羽詰った貧困のイメージとは遠い、と池田さんは言う。公定レートと市中レートに130倍も差があるのも、闇経済の大きさを物語っているのかもしれない。
「マンダレーの子はさ、うちの店で働いてもらおうとしても、来てくれませんよ。雇っているのは、みんな村の人。この国、実はけっこう豊かだと思いますよ」

ヤンゴン~摩訶不思議な両替事情の巻

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上座部仏教の国に来た(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


「ヤンゴン国際空港に、インシャッラー20分ほどで到着いたします」とスチュワーデスのアナウンスが聞こえた。インシャッラーは、イスラム教国でよく耳にする言葉で、神のご加護があれば、といった意味らしい。神のご加護があれば20分で着くが、ご加護が足りなかったりすると、もう少しかかるかもしれない。そんなニュアンスだろうか。僕らを乗せたビーマン・バングラデシュ航空機は、ミャンマーの首都ヤンゴンに向け下降中である。
 入国審査官は若い女性たちで、手分けしてパスポートを捌いている。すぐ奥に両替所があって、目鼻立ち整った女の子がブースにいるのが見えた。目が合うと、にこやかに微笑えむ。とっさのことにうろたえた。かれこれ3、4か月、宗教戒律が厳しい国にいて、女性の微笑みに慣れていないのだ。ここは上座部仏教の国である。
 空港から市内の風景にまた驚かされた。芝生の中央分離帯のある広い車道の両側には、手入れされた木立が茂り、白亜の洋館が続く。なだらかなカーブをたどる車窓からは、湖が見え、黄金色の仏塔が流れ去り、シンガポールかどこかにいる錯覚に陥る。アジア最悪級のゴミ溜め都市ダッカから1時間半移動しただけで、予想外に美しい都市に来た。
 冷房の効いた趣味のいい部屋が7ドルで取れた。日本人経営の安宿である。実はまだ両替していない。ふつうなら国境で両替するが、ヤンゴンの空港は極端に両替率が悪かった。1ドル=450チャットと、事前に調べたレートの半分ぐらいなのだ。空港で両替をせずに、米ドルでタクシーに乗って来た。宿で会った日本人の旅人に最新の両替事情を聞く。
 市場で両替すると、1ドル=815チャット。空港も市場も闇レートで、政府が定める公定レートはなんと、1ドル=6.2チャットだという。市場レートの130分の1である。ただ、実際には、市場レートだけを頭に入れればいいので、難しく考えることはない。旅人にとって、公定レートは無視してよいが、例外がひとつだけある。日本大使館である。日本政府は律儀に公定レートを採用しているので、この国でパスポートを再発行したり、増補したりすると破格に安いという。後日、残ページが少なくなったパスポートの増補を願い出ると、わずか130チャット。公定レートでは20ドル、市場レートだと0.16ドル、つまり20円ぐらいである。この旅で最も得をした買い物だろう。
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