Tanimichi World Blog

世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

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スペイン

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SPAIN Jul/Aug 2003
* Ayamonte
* Sevilla#
* Cádiz
* Algeciras
* Ceuta (1)
* Ceuta (2)
* Ronda
* Granada
* Algeciras to Madrid
* Madrid
* San Sebastian/Donostia
* Irun
# 写真撮影地。Photograph by Wakako Takatsuki

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Map courtesy of the U.S. Central Intelligence Agency.

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イルン~国境行き電車の巻

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イルンの駅で(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ドノスティアからわずか20キロ東にフランス国境がある。国境の町イルンまで通勤電車で行けると知って、乗ってみた。バスク電車の意味になる「エウスコ・トレン」は、バスク一帯に線路網を持つ私鉄線である。ドノスティアと国境を結ぶ線は、15分に1本の頻度で運行されている。幹線でも1日に数本しか走らないスペイン国鉄とは大違いだ。
 幅の狭い電車は、ほどほどの乗客を乗せて、国境に向けて出発した。カーブを曲がり、短いトンネルをいくつも抜けては、洗濯物を干したアパートの合間を練って進んでいく。東京で乗りなれた西武新宿線を思い出させるのんきな私鉄である。
 30分後、イルン着。意外と人通りが多い。ポルトガル・スペイン国境のときと同様、イルンについてなにも予備知識がない。宿がないようなところだったら、急いでフランスへ向かうつもりでいたが、心配は無用だった。国鉄駅のそばに、ペンシヨンの看板が出ていた。その名も、ロス・フロンテリーソス――国境の意味なのだろう、多分。名前が気に入って、部屋を取った。
 スペインらしく昼間は営業しない観光案内所の窓にイルンの地図が貼ってあった。目抜き通りを左に曲がって、しばらく歩くと、スペイン・フランス国境の川を越える橋があると読める。住宅地の中のなんの変哲もない道。歩道を進むと、あっけなく橋があった。川幅は案外狭くて、100メートルもなさそう。本当にこれが国境なのか。車道の中央分離帯にFRANCEと彫られた石があって、どうやらここが国境らしいと分かる。ここから先は、フランス共和国ピレネーアトランティーク県エンダイヤ町である。
 眠ったような町エンダイヤで、店頭に品書きが出ていた食堂に入る。先客2組は、ワイン・ボトルと食事を前にして、ひそひそ話している。何語で話しているのか全く聞き取れないぐらい静かな声。店主らしい青年は、にこやかに微笑んで、小さな声でボンジューと言った。この国では、食堂では静かにしないといけないらしい。
 特に見物するところもないようで、町のヨットハーバーから船に乗って、5分。対岸の波止場の落書きと、用もなさそうにたむろする中年男たちのパカパカと聞こえるスペイン語を聞いて、ちょっとほっとした。

ドノスティア(サンセバスチャン)~系統不明の民族バスクの国の巻

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ドノスティア(サンセバスチャン)の港。標識は上がバスク語、下がスペイン語(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ケリーがアメリカに帰る日が来て、ルリコが日本に戻り、マイの大学が始まる日が迫ってきた。僕らの居候生活も1週間を過ぎ、そろそろ旅立つころだと思い、アルベルトにそう告げた。彼は真剣な顔つきでクリスマスに僕の故郷に連れて行ってやる、と言い、僕らも東京に来い、と誘った。
 マドリッドから一路バスクへ向かう。スペインでは、地方ごとにかなりの自治権が与えられており、ところによっては独自の公用語を定めている。なかでもバスク地方は、パイス・バスコ(バスク国)というぐらいで、独自色が強い。分離独立を主張する勢力が力を持っており、テロリストのETAも独立を主張しているそうである。そもそもバスクは、民族的にも言語的にも他の地方とは全く異質で、系統不明の民族だと言われることが多い。
 峠を越えて、バスがバスク国に入ると、道路標識は二言語表記になり、目指すサンセバスチャンはバスク語でドノスティアという地名になると知った。遠目からは芝生のように見える緑が谷間を覆う風景。雲の隙間からときおり光がさしこむ。今まで旅してきたイベリア半島やモロッコの乾燥した大地とは大違いだった。
 ドノスティアに着いて、海岸を見ただけですっかり気に入ってしまった。心地いい潮風が吹くなか、夜8時だというのに泳いでいる人がいる。海辺の市街にはバスク特有の書体で描かれたバルの看板が連なり、広場の芸人は、通行人をおちょくったり、追っかけたりする即興芸で笑わせる。この街のバルは、カニ、エビ、サーモン、マグロをふんだんに使った1皿300円もしないようなツマミを食わせる。スペインのいろんな街でバルを出歩いてきたが、ドノスティアは文句なしに最高だ。
 それに、この街の人々は明らかに今まで旅をしてきた他の土地の人々よりも、愛想がよくて、感じがいい。最初は偶然に気持ちのいい店員が続いただけかと思ったが、そうではなかった。おまけに海と山が見えて、涼しい港町で育った僕にとって、この街はどうしても初めて来たところとは思えず、よけいに気に入ったのだろう。この土地の豊かさにすっかり魅了された。

マドリッド~ふつう暮らしの巻

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バルで酒を注ぐアルベルト。彼の故郷アストリウスの流儀だという(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 アルベルトたちのアパートは住宅広告風に言えば、2LDK、約60平米、6階建の3階、日当たり良好、駅まで徒歩5分、都心20分、スーパー近し買い物便利、皿洗い機・冷暖房完備。とりたてて高級な住宅地でもなさそうだが、荒れている感じはない。アルベルトが言うとおり、典型的な中産階級の住宅地みたいだ。
 僕らが転がり込んできた翌日から、居候がもう一人増えて、6人暮らしになった。僕ら、アルベルト、ケリーに、日本人留学生のマイ、その友だちで名古屋から遊びに来たルリコ。突如として日本人の出入りが増えて、近所の人が怪しまないか。とにかく僕らのマドリッド住まいはこんな感じで始まった。
 アルベルトは弁護士だが、実に質素だ。携帯電話は持っているが、固定電話は持たない。車にも乗らず、ビデオも持っていないし、家にパソコンもない。その反面、週に数回は昼休みに自宅に戻っては食事を作ったり、買い物をしたりする時間がとれるみたいだ。金曜日の午後は仕事がないとかで、彼と近所のスーパーに行くと、買い物客で大賑わいだった。まとめ買いする日のようだ。魚売り場でズワイガニを700円ぐらいで買って、まるごとゆでて食べた。週末は公園で本を読むのが楽しみだと言う。
 彼はいつも何かを読んでいて、実に博識である。ある晩、第二次大戦中にスペインが枢軸国側に参戦していたという話を聞かせてみせては、またある日は、スペイン人のシエスタ(昼寝)のとり方についての話になったりする。僕らの会話は、毎晩のように深夜まで、乱れ飛び、尽きることがなかった。彼はときに毒舌で、ときにジョークを交えて、スペインを、スペイン人を、スペインの暮らし方を語った。
 実際、マドリッドの暮らしはなかなか快適だ。野菜が新鮮で安いのが気に入った。トマトソースを作ると、塩を足す必要がないぐらい味が濃い。地下鉄は市内全域100円もしないし、乗り換えも楽だ。東京よりもはるかに人口が少ないのに、路線数は12もある。バスは終夜運転をしていて、街は夜半まで賑わっている。夜10時過ぎから観た映画は400円ぐらいだった。アルベルトからスペインで住むことを勧められた晩は、それも悪くないなと思ったぐらいだった。

モロッコからマドリッドへ~一路北上の巻

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車窓から見たアンダルシア地方(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 フェズからタンジェを経て、海路スペインに戻り、ロンダ、グラナダとアンダルシアの古都を巡った。このまま東に進めば、世界的に有名なコスタデルソル(太陽海岸)を通って、バルセロナから南仏へ進むことができる。あるいは北上して、マドリッドを通過して、大西洋岸のバスクからフランスに入るという手もある。
 バスクについては、旅の途中、相反する風評をたびたび耳にしていた。スペインで最も食事がうまい、涼しくて景色が美しい、雨ばかり降る、ETAというテロ組織の本拠がある危ないところ。ETAのテロについては、少なくても二度、旅行中に新聞で読んでいた。一度はスペイン南部のリゾート地で爆弾をしかけ、数人の死者を出し、その数日後には北部のサンタンダール空港での爆弾テロ。日本から持ってきたガイドブックには、「ETAのテロは旅行者を狙うことはない」などとあったが、この夏は別のようだ。
 そして、首都マドリッド。こちらは「首絞め強盗」と命名された輩が日本人旅行者を狙い撃ちにしているとガイドブックにあり、現に窃盗被害にあった旅行者と何人か遭遇した。
 迷ったあげく、マドリッド・バスク・ルートにした。ひとつは、テトゥアンで一緒だったアルベルトとケリーがいつでも泊まりに来てよい、と誘ってくれていたのと、もうひとつは不可思議なバスクが見たかったからだ。
 グラナダから乗ったバスは5時間きっかりでマドリッドの南部ターミナルに到着し、僕らはリスボン以来ほぼ一月半ぶりに地下鉄に乗って、アルベルトとケリーのアパートに近いアントニオ・マチャード駅に降り立った。
 モロッコで数時間一緒に見物しただけの間柄なのに、誘いを真に受けて泊まりにいくなんてずうずうしいとも思ったが、アルベルトとはどこか気が合いそうな予感がしていた。彼は環境問題を扱う弁護士でたぶん20代半ば、性格はいささか神経質で慎重、弁護士らしく理屈っぽい話し方をする。ガールフレンドのケリーはフロリダ出身のアメリカ人でマドリッドの大学に留学中、陽気で大胆なアメリカ娘。彼らについて知っているのはそんなことだけだった。そして、彼らのアパートには、僕ら以外にもケリーの友だちが居候中だという。名前はマイ。それしか知らない。さて、なにが起きるのか。

セウタ~泥水まみれの越境の巻

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セウタに戻ると、イルミネーションがまぶしい祭りが開かれていた(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 数時間いただけのモロッコからスペインに戻った。今晩の宿はスペイン領セウタに取ってある。国境から市バスで20分もあれば着く、賑やかな港町である。セウタ行きのバス停は、国境の検問所からは30メートルもないぐらいの場所にある。日が暮れかけた国境は、セウタに急ぐ人々でざわめいていた。
 人が騒いでいるのが聞こえて、ふり向くと、すぐ背後の鉄柵に人だかりができている。鉄柵の向こう側から2つ、3つ荷物を投げ込まれた。ビニールでぐるぐる巻きに包装された小包大の箱が次々に投げ込まれては、鉄柵のこちら側で拾った人がそれを持って、歩き去る。
 なにをしているのだろうと、ぼんやり眺めていたら、チェックのシャツを着た大男が鉄柵をよじ登っているのが見えた。こちら側に降りようと、長い足をまたいだところでバランスを崩し、肩から落下してしまった。水たまりに落ちた男の目は、大きく開いていた。怒りを押し殺したような顔に見えた。真剣そのものの顔だった。泥水まみれの男は、周囲の見物人に一瞥もせずに立ち上がり、車列をすり抜けると、背後の丘を駆け上がっていった。
 バス停に並ぶ中に、ついさっき国境検問所で話を交わした女の子がいた。
「なにが起きているのか分かるかい」
「モロッコ人が不法入国しているのよ」とオランダのパスポートを持ったモロッコ移民の彼女が流暢な英語で話す。「鉄柵の向こう側は海でしょ。モロッコ側から泳いできたんでしょう」
「彼らはどこに行くのかな。スペイン本土に行くつもりなのかな」
「無理よ。すぐ捕まるわ。そんなに驚くことではないのよ。これはよくあることなの」
 彼女はモロッコに里帰り中の移民二世で、今日は親戚の女の子たちとセウタの祭を観にいくという。パスポートを提示して正規に越境している。どうして君の親戚は正規に入国できて、あの男たちはできないのか、と聞きたい気もしたが、やめておいた。
 バスが来て、僕らは夏祭りで賑わうセウタへ向かった。

セウタ~国境で身柄拘束の巻

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スペイン・モロッコ国境(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 旅をしていると、旅人同士でつるんで食事をしたり、乗り物に同乗したりすることがある。貧しくて、衛生状態が悪くて、危険が多い土地であればあるほど、旅人との出会いが多い。今回の旅で、それがほとんどなかったのは、安全な土地を歩いてきたためだろう。
 この日、僕らにとって最初の旅人仲間、佐藤さんとモロッコに向かったときは、そんなことを思いもしなかったけれど。佐藤さんは、建設会社を辞めて世界を放浪している同世代の男性だ。
 アルヘシラスを発って50分。右舷からひときわ大きなスペイン旗がなびいているのが見えた。アフリカに残るスペインの領土、セウタ港に入港した。
 セウタで安宿を確保して、賑やかな中央市場から市バスに乗る。行き先はフロンテーラとあった。モロッコ国境である。坂の多い町中から港に向かうバスは、石造りの壁が続く道を通っている。港を見下ろす砦。遺跡のように見えたが、片隅にスペイン兵が忙しそうに動き回っていた。高射砲が据えつけてある。
 いくつもの停留所で客が乗り降りして、やがて車内は、スカーフで頭を覆った女たちと口ひげを生やす浅黒い男たちばかりになっていた。
 バスを降りたところは、20分前に歩いた、涼しくて、湿っぽいセウタの街とは別世界だった。ふろしきのような布で包んだ荷物を背負う老婆、両替商の客引き、路上の物売り、立ち往生する車列。砂ぼこり、体臭、排ガス。
 足早に進む人の波とともにスペインの係官にパスポートを見せ、金網で仕切られた通路を進む。数十メートルしたところで、左右の仕切りの作りが変わった。モロッコ領内に入ったようだ。そこから先は、どういうわけだか人が停留して、ごったがえし、怒声が聞こえる。地べたに並べた売り物を前にして男が殴りあいをしている。和華子と佐藤さんが遠巻きにカメラを向けた。人の肩越しに乗り出すと、喧嘩現場の背後に、ジーンズを履いた、いかつい男が駆け足で向かってくるのが見えた。
「カメラを出せ。ついてこい」と2台のカメラを奪い取ったジーンズ男の背中には、POLICEの白抜き文字が映えていた。和華子と佐藤さんは、ジーンズ男に誘導されて、通路の奥に建った薄汚いコンクリート建てに入っていった。

アルヘシラス~豚の太股の巻

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豚の太腿をぶら下げたバル(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 今回の旅にはひとつだけテーマがある。目的というほど切実なものではなくて、できれば行く先々で見てやろうと決めたテーマ。国境だ。国を分かつ一本の線で、風景や行き交う人々の顔つきがどう変わるのか。物価や口にするものはどうか。素通りするだけの旅人の視点でしかないが、できるだけ多くの国境とその両側の街を見たいと思った。
 旅のルートは決めていない。場当たり的に「次はどこのしようか」と同行の和華子と話す。彼女は見所や名物といった観光情報を仕入れてきては色々と主張する反面、僕はもっぱらどこで国境をまたぐかを口うるさく言う。
 そんなわけでアルへシラスは外すことのできない街だった。ジブラルタル海峡を挟んでアフリカと対峙する港湾都市アルヘシラスは、両大陸を結ぶ大動脈の集結地である。
 そして、ここからバスで40分しか離れていない、いわば隣町にヨーロッパに残る最後の英領植民地ジブラルタルがある。スペインは長らく、ジブラルタルの返還を主張しているが、イギリスは今なおこの港湾都市に戦略的重要性を見出しているようで、手放さない。
 さらに、アフリカ側にはスペイン領の港湾都市セウタがあり、モロッコの返還要求は成就しないままとなっている。
 つまり、地中海の入り口となるこの海峡の両側で、スペイン・イギリス、スペイン・モロッコのふたつの陸路国境が存在するわけである。
 アルヘシラスに宿をとった。窓を開けると、野菜や果実を売る露店が市場を取り囲むのが見える賑やかな部屋だ。この街には、いままでスペインで見かけたおぼえがないアラビア語の看板が目につく。市場から港よりの一角は、アラビア語圏のモロッコ人ゾーンになっているようで、彼らがたむろす食堂があちこちにある。店に入ると、モロッコ人の男たちが押し黙ってアラビア語のテレビに見入っていた。独特の抑揚をつけた「アメリッカー」が聞こえ、イラクの映像が流れている。
 市場から港の背後に伸びる丘を上がっていくと、バルがあり、豚の太股が何本もぶら下っている。これは生ハムの塊なのだ。スペイン人にとっては当たり前の光景だが、イスラム教徒のモロッコ人は、立ち入る気がしなくなるのだろう。

カディス~夜10時の夕陽の巻

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カディスの夕陽(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 長居したセビージャから南下してカディスに着いた。高校生の頃だったか『カディスの赤い星』を愛読したのが、ここに来たただひとつの理由だ。
 観光局で地図をもらうと、ちょうどサンフランシスコと同じように三方を海に囲まれた街だと分かった。潮風が吹き、熱波のセビージャとは別世界だ。
 夕方になると気温は30度を割り込み、夕涼みに出かける。町の中心を示す広場から商店街を練り歩いて15分。岸壁沿いの散歩道には釣竿を手にした男たちが地中海を見やる。言葉の通じない旅人を相手に、老人が釣り上げた小魚の口に指を入れて、誇らしいポーズをつくる。竿を投げ飛ばしては、ぼそぼそと口にする言葉は皆目分からない。釣りのコツを伝授してくれているのかもしれない。
 半島の街の先端は漁港兼海水浴場だった。夜10時近くまで日が暮れないこの地では、まだまだ磯遊びまっただなかだ。海水浴場から海中に石造りの道が伸び、軍艦のシルエットをもつ要塞跡を結んでいる。夕陽色に染められた道を進んで、振り返るとカディスの街が海に浮かんで見えた。
 スペイン語で話しかけられた。丸顔の若い男が何か言っている。ガールフレンドらしい女の子が「この街が気に入ったの?」と英語で言い直した。
 住んでみたいぐらいだと答えると、丸顔が笑った。彼はカディスの歴史を語り始め、ガールフレンドが真剣な顔で訳してくれる。早口で一気に話すので、彼女が同時通訳者のようになる。フェニキア人、ローマ、ムーア人、レコンキスタといった単語が彼の口からほとばしる。
「君たちの先祖もその頃からカディスにいたのかい」
「きっとそうよ」と誇らしく言うふたりは弁護士と英文科の学生のカップルだった。僕らは旅に出て2週間経ち、はじめて同世代と会話らしい会話ができたことを喜んで、カディスでの暮らしや僕らの旅のことを語って、笑った。
「日暮れの少し前にここに来て、水に入り、海を見る。そんな暮らしがあるところよ」と彼女は言った。

* 逢坂剛『カディスの赤い星』(Amazon.co.jp)
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セビージャ~摂氏46度の巻

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フラメンコの踊り手(2003年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ヴィラレアルの町を出発したバスは、国境の河を渡り、スペインに入った。なだらかな丘陵地帯をひたすら駆け抜けていく。果樹園やトウモロコシ畑が続き、丘を越えると、また農地が開ける。人ひとり見かけず、雲ひとつない。
 やがて、丘の向こうに真新しい郊外が出現して、カルフールやBMWやマクドナルドの巨大な電飾が林立する。クリーム色の外壁にオレンジ色の瓦を載せたレゴのおもちゃのような住宅が斜面を這い上がる。カリフォルニアでも第三京浜の車窓でも見かけた風景だ。世界遺産を抱える古都セビージャは、世界規格の郊外を持つ大都市だった。
 翌朝、イスラム王朝の王宮跡やスペイン最大という大聖堂を見物。精密な装飾、白昼の中庭を囲む柱列、天空をめざす尖塔。世紀を超えて建造者の強烈な意思を見せつけられながら回廊を迷う。
 ここでは、バルの店員は皿をたたきつけるように重ね、歌うように注文をとる。客は能弁で、チリ紙や吸殻を床に投げつけ、昼過ぎになると一斉に姿を消す。地中海地方では昼寝の習慣があるとは聞いていたが、この街では徹底して励行される。その頃になると気温は体温を優に超え、睡魔が確実に押しよせる。
 郊外に出かけた帰り、市内の電光掲示板に46度とあった。故障かと乗り合わせた客に聞けば、そうではないと言う。果たして翌朝の地元紙一面を「14年ぶりの熱波、46.6度を記録」と大見出しが飾った。ヘラルドトリビューン紙の天気欄には、セビージャより暑かったのはエジプトのルクソールだけだとあった。
 フラメンコの本場である。観光客ばかりが吸い込まれる歌小屋で宿代を上回る代金を払った見物。予備知識もなければ、ダンスや歌謡の教養もない。期待するほうが間違っているから、ふてぶてしく席につく。
 序盤から大男が舞台をたたきつけて跳んで舞い、上着を肩にかけての古典的なポーズで壇上を去る。身を乗り出して動きを追った。無駄口をたたく間もなく2時間が経ち、深夜零時。即席フラメンコファンになった。
 何もかもが強烈にたたきつけられる、そんな街だと思った。
* Sevillaは、一般的にはセビーリャと発音するようだが、現地の方言ではセビージャのようになる。表記にブレがあるのはこんなわけである。

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