Tanimichi World Blog

世界32か国、16か月の旅。

ユーラシア横断陸路の旅 まえがき

スポンサーサイト

»カテゴリ: スポンサー広告

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

バングラデシュ

»カテゴリ: バングラデシュ

20050106223245.jpg

BANGLADESH, Mar/Apr 2004
* Jessore
* Khulna
* Kolkata to Khulna
* Dhaka
* Chittagon
* Cox's Bazar#
* Teknaf
* St. Martin's Island
* Cox's Bazar#
* Dhaka
# 写真撮影地。Photograph by Wakako Takatsuki

20050106223235.gif

Map courtesy of the U.S. Central Intelligence Agency.

スポンサーサイト

セントマーチンズ島~暴風雨の海、人体の神秘の巻

»カテゴリ: バングラデシュ

20050106030557.jpg

ロブスターと97歳の宿主(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 3時間後、暴風雨の島が目前となった。セントマーチンズ島の浜まであと200メートルか。船は錨を下ろした。桟橋には着かない。乗客は軽々と海に飛び込んでいく。飛ぶしかないぞ、悲壮な顔をする和華子に怒鳴った。震える体を起こし、海に落下。他の乗客にバックパックを投げてもらい、遠浅の海を浜まで進む。和華子を拾いに浜と船を往復し、気を静めてから、20キロ近くある荷物を背負う。体は軽く、風は生ぬるく、感覚が遠い。とにかく雨風から、海から、少しでも遠ざかろうと、椰子茂る方に歩き出した。
 そのとき、不思議なことが起きた。半裸の子供の一群に囲まれていた。歓声に包まれていた。足を止めずに、眼鏡を外し、見渡す。パクパク開く子供たちの口と無関係に、歓声がこだまして聞こえる。現実に起きていることなのか。確信が持てない自分がいた。その後はよく覚えていない。宿を見つけ、荷物を下ろして、体を拭き、そのままベッドに倒れこんだ。
 あらためて冷静に思い返してみて、あれは人生で初めて経験する「火事場のバカ力」だったと思う。疲れ、寒さ、荷物の重さが消え失せていた。五感に膜がかかったように、感覚が円やかになった。ただただ一刻も早く抜け出そうと、体が勝手に動いていた。人体の神秘さを感じる。
 ベンガル湾上に浮かぶセントマーチンズ島は、東西1キロ弱、南北はやや長い小島。白浜に囲まれた島の大部分は椰子に覆われている。バングラ最東端の僻地である。電気は通らず、水道もない。今まで割りと不便なところは何か所かあったが、ここは桁違いだ。滞在した6日間に会ったのは、島民以外は、何組かの都会から来た観光客がいるだけだった。
 島の暮らしは面白かった。宿の主人は97歳だという。1955年に教師として派遣されて以来、島に住み着いて半世紀たった。高齢にも関わらず記憶は確かで、島のことはなんでも知っている。「ヒンズー教徒が5世帯いるだけ」だそうで、他はみなイスラム教徒。ふんだんに取れるロブスターやカニは、教義に反するので、食べない。最近まで捨てていたそうである。異教徒にとっては、ロブスターが1匹100円で食べられるのは、天国のようだ。大いに食い、泳ぎ、遊んで、後は本土行きの恐怖の船旅を待つだけである。

テクナフ~越えられない国境の巻

»カテゴリ: バングラデシュ

20050106030050.jpg

テクナフとセントマーチンズ島を結ぶ木造船(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 ポルトガルから陸路でユーラシアを東進して9か月。バングラデシュは23か国目だから、だいぶ国境を越えたことになる。なかには越えられない国境もあった。北キプロスの首都ニコシアでは、金網越しに南キプロスの同名の首都を見ながら、越境を拒否された。トルコ東部のアチャッカレでは、ビザがなくて地雷原の向こうのシリアを見るだけだった。パキスタン・アフガン国境にも行ったが、度胸がなく、戦乱の国へは行かなかった。いま、再び越えられない国境に来た。バングラ本土最東端の町テクナフ。ナフ河対岸の手が届くようなところに、ミャンマーがある。
 念のため、桟橋で聞いて回るが、外国人は乗船不可だと誰もが言う。できればこのまま陸路、海路で行きたかった。旅人の間では、「ミャンマーのビザを取得して、国境まで行けば通過できる」とか「バングラのチッタゴンから船便がある」とか噂が飛び交っていた。コルカタのミャンマー領事館で、陸路入国について相談してもみた。ヤブヘビだったようだ。ビザを受領しに行くと、パスポートに「陸路は許可せず」の文言をスタンプされてしまったからだ。バングラに入ってからも、ミャンマー大使館に許可を求めたり、チッタゴンの船便情報を調べたりしたが、全てが徒労に終わった。ダッカに戻り、空路でミャンマー入りするよりほかないようだ。
 テクナフは、騒がしい街道際に泥まみれの路地が走り、泥川が流れる、みすぼらしい町だった。ミャンマー産の煙草や菓子、中国製の安物雑貨を売る露店が密集する一角があり、時おり、ミャンマー人らしき人とすれ違う。ただ、それ以外は、バングラの片田舎である。
 翌朝、屋根もないちっぽけな木造船に乗りこむ。ミャンマーに行けない代わりに、沖合の小島に行こうと思う。50人ばかりの乗客は欄干に追いやられた。セメント、氷塊、食糧、それに2頭のヤギと籠に入った鳩が船体を占拠したからだ。ミャンマーを横目で見ながら、ナフ河を進み、大洋に出るや小雨になった。やがて飛沫が襲い、本降りになった雨に打たれる。顎が言うことを利かずに震えだす。灼熱の国にいて、凍死しそうだ。波の合間に似たような木造船が見え隠れする。旗を振る乗員。救助を求めているのか。頼むから、助けになんて行かないでくれ。胃液を飲み込みながら、本気でそう祈った。

コックスバザール~2000年続いた仏教徒の巻

»カテゴリ: バングラデシュ

20050106030044.jpg

仏教徒の子供たち。バロアとともにラカイン人がいる(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 コックスバザールの海岸は世界一長い。少なくてもバングラデシュの人はそう信じているようで、誰もがそう言う。確かに見事な海岸だった。一直線の浜がどこまでも続き、ベンガル湾の波が押し寄せる。サーフィンにちょうどよさそうだが、サーファーどころか水着姿もほとんどいない。都会風の女性はサリーのまま水に入る。波と戯れるサリーは西日に透けて、ボディーラインが目の当たりになる。
 バングラデシュをベンガル湾沿いに東に向かった小都市。けたたましいダッカやチッタゴンとは別世界だ。ミャンマーに近いこの地には、仏教寺院がいくつかある。目抜き通りのほど近くに、椰子の木立に囲まれ、切妻屋根が幾条にも重なる静かな境内があった。寺にいた少年が案内を買って出る。聞けば、先祖代々仏教徒だといい、「バロア」という。ベンガル語で仏教徒を意味するそうだ。仏教の発祥地はインドだが、その後廃れ、いま亜大陸には仏教徒は非常に少ない。その仏教徒にしても、チベット難民やアッサムの民族、独立後に改宗したいわゆる新仏教については見聞きしたが、「バロア」は初耳である。
 町外れにある小さな寺でバロアの青年に会った。僕が仏教徒だと言うと、家に誘ってくれた。訪れた家は、その名もバロア家という。この地方の仏教徒はみなバロアの姓を持つと、英語がうまい小学校教師の妹、ルマが説明する。バロアはベンガル語を話し、2000年前から一貫して仏教徒であった。その間、他のベンガル人がヒンズー教、のちにイスラム教に改宗するなか、信仰を守ってきたという。聞けば聞くほど興味深い人々である。
 ある日、バロア家を訪ねると、22歳の弟、アシュトシが「お母さんが君たちが食べたいものを作ったよ」と歓待してくれた。食卓を彩るカレーの小皿。カニだ。イスラム教は鱗のない魚介類を食べないから、この国ではふだん口にできない。それに豚肉もある。和華子と僕は大喜びして食べあさった。
 バロアの集落の人々は、穏やかだ。この国の人はすぐに打ち解け、気軽に家に誘ってくれるが、イスラム教徒は、気高く、質問攻めにする傾向がある。バロアは、明らかに違う。落ち着いていて微笑を絶やさない。ここから50キロばかり東へ向かえば、仏教圏が始まる。文明の分水嶺がここにもあった。

ダッカ~出稼ぎ社長の苦言の巻

»カテゴリ: バングラデシュ

20050106030038.jpg

リクシャとバスがひしめき合う(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


 観光客が来ない国、バングラデシュの首都ダッカ。ひどい街だ。人口1200万人の巨大都市なのに、信号という信号は機能しない。車道には、ものすごい数の自転車リクシャと黒鉛を撒き散らすオンボロバスがぶつかり合う。公園、ビルの軒先、川辺といった空き地は、ことごとくスラム。街のいたるところに乗用車大のゴミ箱があって、あふれかえったゴミが臭気を発している。吐き気を抑えるのがやっとだ。
 朝食を取りに、宿の1階にある食堂に行くが、カレーしかないという。何軒か探すが、どこも同じだ。結局、朝からカレーを食べる。この辺りは、配管や便器を扱う問屋街みたいで、銀行だとかインターネットカフェといった便利なものはない。実に不便である。
 このゴミ溜めに1週間も滞在してしまった。まず、ミャンマー大使館に陸路入国の許可を陳情するが、「絶対不可」。航空券を買わないといけない(「旅行税」が5000円もかかる!)。さらに、「出国地点変更許可」。入国地点とは別の国境から出国するには許可がいるのだ。もちろんパスポートのコピーやら顔写真やらも必要で、受領は翌日。下らない官僚主義につき合うために、リクシャに揺られ、汗を垂らして、ダッカを東奔西走。
「出国地点変更許可」を申請した後、役所のそばで昼食を取った。1200万人の大都会でも、好奇心の強いバングラ気質は変わらず、たちまち人だかりになる。英語のうまい代書屋が、「我が家に来い」と、住所を教えてくれたので、訪ねたりした。
 別の日に騒がしい交差点で話しかけられた。流暢な日本語である。日本で出稼ぎしていたというデュラルさん。何度か彼が経営する下町の履物問屋を訪ねた。22歳のときに日本に行き、35になるまで、千葉、東京の下町、群馬で過ごした。日本にいるバングラ人の多くは同じ地方の出身だという。同じ問屋ビルにも大勢の出稼ぎ帰りの社長たちがいた。青春のほとんどを日本で不法就労者として過ごし、人一倍働き、金を貯めた。今では一国一城の主である。口に出るのは、「たまげたよ」「社長のセガレがさ」と味のある下町言葉。
「悪いことしなかったよ。真面目にさ、ずっと働いても、日本はビザくれないでしょ。30過ぎてさ、もうバングラに帰るしかないな、と思ったよ」
 日本を懐かしく話すデュラルさんが唯一こぼした苦言だった。

コルカタからクルナへ~珍獣、宇宙人状態の巻

»カテゴリ: バングラデシュ

20050106025421.jpg

クルナの波止場で(2004年)
Photograph by Wakako Takatsuki


「バングラデシュへ行こう、観光客が来る前に」
 デリーのバングラ大使館で見かけたポスターにこうあった。政府観光局のポスター。観光を振興する当局にしては、ずいぶんと大胆な開き直りだなと思った。
 そのバングラデシュにやって来た。コルカタから通勤電車に乗って2時間、17ルピー(約43円)。わけなく国境へ到着する。国境線をバングラ側にまたいだところに、肌色の制服を着た役人がいて、とっさに「サラーム・アレイコム」の挨拶が口に出た。トルコからパキスタンまで毎日幾度も使い、聞いたイスラムの挨拶。役人は目を丸くして、お前はイスラム教徒なのか、と聞いた。「いや、そうじゃない、日本人だ」「おお、日本人、ウェルカム、ウェルカム」。イランからパキスタンへ入った時を思い出した。愛想がいい。
 国境から自転車リクシャとバスを乗り継いで、ジョソールという町に向かう。気づくと誰かが目を開き、口をぽかんと開けて、僕らを熟視している。併走するリクシャの運転手、その乗客、道行く子供、食堂の店主。幻の珍獣か宇宙人でも見たかのようだ。首都ダッカと隣国の1000万都市を最短で結ぶ国境近辺なのに、あまりに驚かれることに驚く。
 ジョソールの町でも同じである。宿の従業員は、入れ替わり立ち代り部屋にやってきて、蚊避けスプレーを持ってきたり、部屋の具合を聞いたり。気づくと他の従業員が大真面目な顔で覗き込んでいる。英語はあまり通じない。町に出て、誰かに英語で話しかけられ、ふと気づくと、もう30人は集まっている。無言でただ僕らを熟視する。
 観光客が多い北インドでは、ついぞこんなことはなかった。列車で乗り合わせても誰も話しかけてこないし、町では客引きだらけだ。むしろ、回教圏のイランやパキスタンで似たようなことがあった。ただ、彼らは概して、もっと堂々としていた。「困っているなら、助けてやるぞ」といった感じである。ここの人たちは、何を言えばいいかもわからず、口をぽかんと開けて、僕らを取り囲む。
 ジョソールで1泊して、クルナの波止場に行った。ここから船でダッカへ行く。乗船まで暇をつぶしていると、子供に取り囲まれ、その子供を追い払いに大人が来て、その大人も取り囲み、ますます人が増える。この国では、面白いことになりそうな予感がする。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。